「インターネットの歴史」の版間の差分
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{{Quote|広帯域の通信線で互いに接続された、そのような(コンピュータの)ネットワークは、こんにちの図書館のような機能(を提供する)と共に情報格納・検索などの記号的機能を進化させると期待される。|J・C・R・リックライダー|<ref>{{Cite journal| author=[[J・C・R・リックライダー|J. C. R. Licklider]] | title=Man-Computer Symbiosis | year=1960}}</ref>}}
1962年8月、リックライダーとウェルデン・クラークは論文 "On-Line Man Computer Communication" を発表。ネットワーク化された未来を描いた初期の文献の1つである<ref>{{Cite web |url=https://apollogrouptv.org/ |title=ApolloGroupTV |access-date=2017-10-28}}</ref>。
1962年10月、[[国防高等研究計画局|ARPA]]局長{{仮リンク|ジャック・ルイナ|en|Jack Ruina}}は新たに創設した部門である [[:en:Information Processing Techniques Office|Information Processing Techniques Office]] (IPTO) の部長としてリックライダーを雇い、[[シャイアン・マウンテン空軍基地|シャイアン山]]と[[ペンタゴン]]と[[戦略航空軍団|SAC]]本部にあった[[アメリカ国防総省]]のメインコンピュータ同士の相互接続を命じた。そこでリックライダーはARPA内で非公式のグループを結成し、コンピュータの研究を進めさせた。IPTOスタッフへのメモで分散ネットワークを描いており、その中で部下や同僚たちを「銀河間コンピュータネットワークのメンバーと関係者」と呼んでいる。IPTOの役割の一部として、3台のネットワーク端末を設置した。1つは[[サンタモニカ]]の [[:en:System Development Corporation|System Development Corporation]] に、1つは[[カリフォルニア大学バークレー校]]の [[Project GENIE]] に、残る1つは[[マサチューセッツ工科大学]] (MIT) の[[CTSS]]プロジェクトに接続した。この設備の無駄からリックライダーの考えるインターネットワーキングの必要性が明らかとなった。
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