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氏久が了俊に対抗出来たのは自己完結型の知行制を確立していたこと、幕府と独自の交渉ルートがあったからであり、守護職剥奪に関係なく国人・寺社に対する安堵・宛行・寄進で懐柔を進めた一方、了俊の頭越しに幕府と交渉、服属と離反を繰り返した。こうした氏久の動向に対して幕府は了俊の要請で追討令は出すが、服属すれば簡単に受け入れ、元中元年/至徳元年([[1384年]])に氏久へ日向荘園の遵行、大隅への[[段銭]]賦課を命じ、氏久の大隅・日向に対する実効支配を重視する姿勢を取った。幕府は島津氏に了俊への忠誠よりも日向の秩序維持を求め、日向にある幕府領を安定・維持出来るのは氏久しかいないと判断した上での命令だったが、それが氏久の叛服常ない態度が許される要因となった。元中4年/至徳4年([[1387年]])に氏久は亡くなったが、子の[[島津元久|元久]]も了俊との対立を続けた{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=422,445}}{{sfn|新名一仁|2023|p=48}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=142-145}}。
 
島津氏との戦闘は長引いたが、征西府討伐は大詰めを迎え、元中8年/[[明徳]]2年([[1391年]])に八代城が陥落し良成親王は筑後矢部(現在の[[福岡県]][[八女市]])へ逃れ、元中9年/明徳3年([[1392年]])の[[明徳の和約|南北朝合一]]を機に武朝と和睦し、明徳4年([[1393年]])までに武朝ら九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。しかし南北朝合一後も元久と対立、[[応永]]元年([[1394年]])に4男の[[尾崎貞兼]]を南九州に派遣して庄内で島津軍と戦ったが、貞兼は敗れ相良前頼は戦死、翌年に了俊も九州探題を解任されたため、島津氏討伐は失敗に終わった{{#tag:ref|元久も氏久から幕府との交渉ルートおよび服属と離反で生き残るしたたかな外交を受け継ぎ、明徳2年に幕府から日向守護に補任され、[[相国寺]]が日向国内にもつ所領を雑掌に打ち渡すことを命じられたほか、相国寺領の三俣院を押領した高木久家の排除命令を口実に庄内へ進出、貞兼・前頼を破り庄内を占領した。前年の元中7年/明徳元年([[1390年]])の伊久の武家方帰参もあり、島津氏は幕府から薩摩・大隅・日向の実効支配を認められ、了俊と島津氏の抗争は前者の九州探題解任で後者の勝利に終わった。なお、後に元久と伊久は対立し、島津氏は元久の[[奥州家 (島津氏)|奥州家]]と伊久の[[総州家 (島津氏)|総州家]]の抗争が勃発したが、勝利した元久が応永16年([[1409年]])に薩摩・大隅・日向守護に任じられた{{sfn|川添昭二亀田俊和|1964杉山一弥|2021|p=208445-209446}}{{sfn|史編さん委員会|19892005|p=274144-276147}}{{sfn|新名一仁|2023|p=48-52}}。|group=*}}{{sfn|川添昭二|1964|p=208-209}}{{sfn|高史編さん委員会|20051989|p=145274-147276}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=422-423}}{{sfn|新名一仁|2023|p=48-50}}。
 
外交では懐良親王を指すとされている「日本国王良懐」を冊封するために派遣された明使を抑留し、日明交渉を将軍足利義満の手に委ねた。また、[[高麗]]の使者[[鄭夢周]]とも接触して独自の交渉を行い、明徳3年に[[李氏朝鮮]]が成立しても交渉を継続した。これにより、大内氏にも呼びかけて[[倭寇]](前期倭寇)を鎮圧し、倭寇に拉致された高麗人の送還などを行い、『[[大蔵経]]』を求めるなどの善隣政策を推進した{{sfn|川添昭二|1964|p=160-169}}。