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了俊も態勢を立て直すために策を巡らし、3月に島津伊久へ本領安堵をちらつかせて氏久に同調しないよう牽制、島津氏の分断を図った。5月には5男の[[今川満範|満範]]を[[薩摩国|薩摩]]・大隅・[[日向国|日向]]3ヶ国の大将として南九州へ派遣することを薩摩国人[[入来院重頼 (室町時代)|入来院重頼]]・[[伊集院久氏]]に伝えて氏久の孤立を画策、6月に満範は肥後国人[[相良前頼]]に[[人吉市|人吉]]で迎えられ、大隅国人[[禰寝久清]]らを勧誘しつつ氏久の居城・日向[[志布志城]]への侵攻ルートにある日向庄内(現在の[[宮崎県]][[都城市]])の三俣院へ進軍した。[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]に了俊は幕府から氏久・伊久に代わり大隅・薩摩守護に補任、満範は[[8月28日 (旧暦)|28日]]に三俣院へ着陣、9月には氏久の叔父[[樺山資久]]が籠る日向[[小山城 (日向国)|小山城]]を落として日向[[月山日和城|高城]]から移り、島津氏攻略の準備を整えた。しかし、満範は小山城から氏久の従弟[[北郷義久]]・[[樺山音久]]兄弟が籠る日向[[都之城]]を攻撃目標にしたが、国人がなかなか参陣しないため都之城を包囲出来ないでいた{{sfn|川添昭二|1964|p=132-137}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=124-128}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=419-420}}{{sfn|新名一仁|2023|p=46}}。
そんな時、天授3年/永和3年([[1377年]])9月に氏久・伊久が武家方に復帰、了俊に従う国人衆を動揺させた。[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]に国人衆は氏久の報復からの自己防衛として[[南九州国人一揆]]を結成、島津氏が一揆に所領を要求したり合戦をしかけた場合は了俊の指示を待たずに防戦すること、所領問題では了俊の意向を請けつつ一揆構成員の談合で処理することを決めた。この
氏久は武家方に復帰したが、国人一揆の調略を行い了俊の元へ参陣して来なかったので、天授4年/永和4年([[1378年]])3月に両者は決裂、氏久は了俊との敵対関係に戻ったが、伊久は了俊の軍勢催促に応じて妥協へと転じた。了俊は氏久を討つべく大隅国人に満範の陣へ出陣するよう催促、満範は12月に一揆勢を率いて都之城を包囲したが、翌天授5年/[[康暦]]元年([[1379年]])[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]と[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]に志布志城から後詰に来た氏久に敗れて都之城から撤退した([[蓑原の合戦]])。敗因に一揆勢の足並みの乱れにあると見た了俊は「一揆勢が油断して勝手に帰宅したから」「氏久に内通したため」と一方的に責任を一揆勢に転嫁したが、了俊の一揆勢への場当たり的な対応とそれに乗じた氏久の調略も挙げられる。蓑原の合戦の敗北と大隅[[姫木城]]の陥落で、日向方面は戦略の見直しを余儀なくされた{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=131-135}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=422,445}}{{sfn|新名一仁|2023|p=46-48}}。
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罷免理由は従来は義満が了俊の自立化を警戒したからとされるが、見直しが進んで別の説が唱えられている。了俊は応永2年に大友親世と庶家の[[田原氏]]・[[吉弘氏]]との争いに介入し、親世の家臣[[吉弘氏郷]]を討ったことで親世との武力衝突が起こっただけでなく、氏郷が幕府の直臣だったことから義満の不興も買ったことが明らかになった。更に、親世が義弘や島津元久と結託して了俊と九州大名の協調関係が崩壊、軍事的劣勢に陥った了俊は義満に召還されたため、罷免理由は九州からの撤退に追い込まれたことが原因とされる{{sfn|平瀬直樹|2017|p=147}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=423}}。
『難太平記』には、義弘から了俊に大名間同盟を持ち掛けられた話が記されている(この話を了俊が拒んだことが探題解任の一因になったと書かれているため、時期は不明だが解任以前と推測される)。それによると、義弘は了俊に対して親世との関係修復と自らを含めた三者同盟を持ちかけた。その際、諸大名との力関係で処遇を決め、弱い大名は弾圧するが強い大名には手を出さない義満の政治手法を批判し弾圧に対抗するためと同盟を提案したが、了俊は大名の私的な同盟は義満から謀反を疑われかねないため拒絶した。それを恨んだ義弘は親世と謀り了俊を讒言したという{{sfn|川添昭二|1964|p=217-218}}{{sfn|桜井英治|2001|p=55-56}}{{sfn|平瀬直樹|2017|p=147-152}}。
了俊は九州探題を罷免された後、遠江と駿河の[[半国守護]]を命じられ、それぞれ仲秋、甥の今川泰範と分割統治することとなった。泰範は応安2年に九州探題就任前の了俊の尽力で駿河守護になったが、了俊が探題を罷免された応永2年に[[鶴岡八幡宮]]や[[円覚寺]]の駿河国内の所領が押領されたことを口実に半国を取り上げられ、了俊に与えられたため、了俊が自ら所望して守護職を得た物と勘違いして恨みを抱いており、駿河半国返還を幕府に訴えた。了俊も義満のこの措置に不満を抱き、義弘や[[鎌倉公方]][[足利満兼]]に密かに連絡を取ったとされる{{sfn|川添昭二|1964|p=223-225}}{{sfn|小和田哲男|2015|p=81-83}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=423-424}}。この任命は今川氏の内紛を画策した義満の策略が疑われている{{sfn|平瀬直樹|2017|p=179}}。▼
▲了俊は
一方で[[小川剛生]]の研究によると、失意の了俊は義弘の再度の要請に応じ、足利満兼と義弘の仲介を務めたとされ、[[相模国|相模]]藤沢(現在の[[神奈川県]][[藤沢市]])に移住し満兼の援助を受けていたこと、彼と義弘を仲介したことを明らかにしている。『難太平記』で了俊は潔白を主張して責任を義弘に転嫁しているが、
応永6年([[1399年]])10月には義弘が[[堺]]で挙兵し、[[応永の乱]]が起こっている。乱が起こった頃は上洛中だったが、11月に京都から逐電して遠江へ下っている。[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]に義弘が敗死して乱が平定されると藤沢に蟄居したが、義満によって乱の関与を疑われた。翌応永7年([[1400年]])[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]には[[関東管領]][[上杉憲定]]に対して了俊追討令が出されたが、了俊は憲定や泰範の嘆願や弁明、今川一族の助命嘆願の結果許され、[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]に上洛して翌[[9月5日 (旧暦)|5日]]に出仕し義満に詫びを入れたことで赦免された。ただし、了俊と仲秋の半国守護は取り上げられ、それらを与えられた泰範は駿河・遠江2ヶ国を領有した。これは助命嘆願と引き換えにかねてからの泰範の駿河半国返還要求を受け入れた結果だった{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=424}}{{sfn|川添昭二|1964|p=228-230}}{{sfn|小川剛生|2012|p=197-204}}{{sfn|平瀬直樹|2017|p=178-180}}。
了俊は堀越郷を喝命所として与えられ、以後「今川」の名字を名乗ることを禁じられ、「[[堀越氏|堀越]]」の名字を称するようになった{{sfn|奥富敬之|2019|p=138}}。
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* 都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 中世・近世』[[都城市]]、2005年。
* [[三浦三夫]]『百人一首を継承する中世の歌人たち』[[右文書院]]、2008年。
* [[小川剛生]]『足利義満 <small>公武に君臨した室町将軍</small>』[[中央公論新社]]([[中公新書]])、2012年。
* [[小和田哲男]]『駿河今川氏十代』[[戎光祥出版]]([[中世武士選書]])、2015年。
* [[平瀬直樹]]『大内義弘 <small>天命を奉り暴乱を討つ</small>』[[ミネルヴァ書房]]([[ミネルヴァ日本評伝選]])、2017年。
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