「今川満範」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m編集の要約なし |
||
25行目:
[[建徳]]元年/[[応安]]3年([[1370年]])に[[九州探題]]に任命された父に従軍、[[文中]]2年/応安6年([[1373年]])3月には父の命を受けて[[肥前国|肥前]][[高来郡]]に赴いた{{sfn|大塚勲|2008|p=34}}{{sfn|川添昭二|1964|p=102-103}}。[[天授 (日本)|天授]]2年/[[永和 (日本)|永和]]2年([[1376年]])5月に離反して[[南朝 (日本)|南朝]]へ転じた[[島津氏久]]への対抗策として[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]]の総大将として派遣され、[[肥後国|肥後]]の[[相良前頼]]を始め南九州の[[国人]]衆の協力を取り付けながら[[島津氏]]の掃討を進め、大隅国人[[禰寝久清]]らを勧誘しつつ、前頼の本拠地[[人吉市|人吉]]から氏久の居城・日向[[志布志城]]への侵攻ルートにある日向庄内(現在の[[宮崎県]][[都城市]])の三俣院へ進軍、8月に三俣院に到着した{{sfn|川添昭二|1964|p=132-133,136-137}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=126-127}}。
9月には氏久の叔父[[樺山資久]]が籠る日向[[小山城 (日向国)|小山城]]を落として日向[[月山日和城|高城]]から移り、島津氏攻略の準備を整えた
同年に名和慈冬(または各和慈冬)が南九州に入り、天授6年/康暦2年([[1380年]])に三俣院へ進出して持久戦・掃討作戦を行い都之城包囲網を再構築すると、呼応して庄内に再出陣し周辺の掃討・拠点占拠などに取り組んで包囲網強化に尽くした。[[弘和]]元年/[[永徳]]元年([[1381年]])7月には[[末吉城]]と[[岩川城]]を攻略して志布志城と都之城の連絡を絶った{{sfn|高城町史編集委員会|1989|p=273-274}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=135-137}}。しかし[[元中]]2年/[[至徳 (日本)|至徳]]2年([[1385年]])に相良前頼が南朝へ寝返ると南九州国人一揆は崩壊、南九州の国人衆が反今川方に寝返る中、慈冬は翌元中3年/至徳3年([[1386年]])までに了俊の命令で薩摩へ移動、庄内戦線は崩壊して南九州の今川氏の影響力は消滅した{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=140-141}}。その後南九州の活動は兄の[[尾崎貞兼]]に替わったようで、貞兼は[[応永]]元年([[1394年]])に日向の島津方の国人と戦っているが、満範の消息は不明{{sfn|高城町史編集委員会|1989|p=275}}。
== 脚注 ==
|