「今川仲秋」の版間の差分
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次兄了俊の養子となり、[[正平 (日本)|正平]]23年/[[応安]]元年([[1368年]])に兄の後任として侍所頭人兼[[山城国|山城]]守護に就任{{sfn|川添昭二|1964|p=69}}{{sfn|国史大辞典編集委員会|1979|p=789}}。続く[[建徳]]2年/応安4年([[1371年]])には[[九州探題]]に就任した兄に従い、11月に[[長門国|長門]]から九州に渡り[[肥前国|肥前]]へ下向、翌[[文中]]元年/応安5年([[1372年]])2月に肥前に攻めてきた[[菊池武政]]を破って[[筑前国|筑前]]に上陸していた兄の軍勢と8月に合流、[[大宰府]]を落とした{{sfn|川添昭二|1964|p=91-94,98}}。以後は兄の代官として肥前に赴き、[[松浦党]]の結集と[[南朝 (日本)|南朝]]勢力の駆逐に務めた{{sfn|国史大辞典編集委員会|1979|p=789}}{{sfn|川添昭二|1964|p=129-131}}。また、[[大内氏]]と同盟を結ぶことを考えた兄の意向で娘が[[大内義弘]]に嫁いだ{{sfn|平瀬直樹|2017|p=34}}。他の出来事として、[[天授 (日本)|天授]]元年/[[永和 (日本)|永和]]元年([[1375年]])[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]に兄が[[筑前国|筑前]]守護[[少弐冬資]]を宴会に招いた際、兄の手引きで冬資を殺害した事件([[水島の変]])や、[[弘和]]元年/[[永徳]]元年([[1381年]])6月に兄と共同で[[菊池武朝]]の[[肥後国|肥後]][[菊池城]](隈府城)と[[征西大将軍]][[良成親王]]の[[染土城]]を落としたことが挙げられる{{sfn|川添昭二|1964|p=111,153}}。
[[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年([[1386年]])頃に帰京、肥前の経営は甥の[[今川貞臣|貞臣]]に引き継がれた{{sfn|国史大辞典編集委員会|1979|p=787}}。元中5年/[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]2年([[1388年]])に遠江守護に任命、翌元中6年/[[康応]]元年([[1389年]])の3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の[[厳島神社]]参詣に同行、[[明徳]]4年([[1393年]])に尾張守護を務め、[[応永]]2年([[1395年]])の義満の出家にならい貞臣ともう1人の甥[[今川泰範|泰範]]と共に出家した{{sfn|国史大辞典編集委員会|1979|p=789}}{{sfn|大塚勲|2008|p=35,37}}。同年に九州探題を解任された兄と遠江を[[半国守護]]として共同統治したが、応永6年([[1399年]])に[[応永の乱]]が起こり、兄が反乱に関与した容疑で泰範に助命嘆願してもらった結果、泰範と共同統治だった[[駿河国|駿河]]を取り上げられた。仲秋も遠江を泰範に取り上げられ、駿河・遠江は翌応永7年([[1400年]])に泰範の領国になった{{sfn|川添昭二|1964|p=224}}{{sfn|平瀬直樹|2017|p=179-180}}。
応永19年([[1412年]])、兄から政治の心得を説いた『[[今川状]]』を与えられたとされ、以後治世の教訓、手本となり継承されていく。ただし『今川状』には誤りが多く、了俊の著作とは認められていない{{sfn|川添昭二|1964|p=250-253}}{{sfn|国史大辞典編集委員会|1979|p=788-789}}。
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