「南九州国人一揆」の版間の差分
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合戦後、今川方部将として名和慈冬(または各和慈冬)が満範のいる庄内へ派遣され、康暦元年に南九州に入り、[[1380年]](天授6年/康暦2年)に三俣院へ進出した慈冬は国人の再結集を図り、都之城を再包囲して周辺の掃討作戦に取り組んだ。満範も一揆勢を率いて1380年、[[1381年]]([[弘和]]元年/[[永徳]]元年)に南九州の掃討と都之城包囲を敢行、包囲は失敗に終わったが掃討は進み着実に包囲網を強化しつつあった{{sfn|高城町史編集委員会|1989|p=273}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=135-137}}。
同年10月に氏久が再び了俊に帰順したが、了俊と氏久の妥協が背景にあったと推測され、了俊は氏久討伐より肥後八代(征西府の最後の拠点)にいた征西府討伐を優先する方針、氏久は都之城包囲網解除の目論見があったからとされる。この帰順も一揆勢にとっては危険であり、氏久は一揆勢の所領侵略を始め了俊の元へ参陣せず、了俊は最初の帰順同様一揆勢の都合を棚上げにして氏久への休戦と八代への参戦を呼びかけるだけだったので、[[1385年]]([[元中]]2年/[[至徳 (日本)|至徳]]2年)に今川方として活動していた相良前頼が離反、征西府に帰順したのを始めに禰寝氏や伊集院氏も離反して国人一揆は事実上崩壊した。そして南九州の国人衆が反今川方に寝返る中、慈冬も[[1386年]](元中3年/至徳3年)までに了俊の命令で薩摩へ移動、庄内戦線は崩壊して南九州の今川氏の影響力は消滅した{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=422,445}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=
[[1387年]](元中4年/至徳4年)に氏久が60歳で死去、後を継いだ子の[[島津元久|元久]]も了俊への帰順と離反を繰り返しながら幕府と直接交渉して日向守護職に補任され、[[1394年]]([[明徳]]5年)の相良前頼の戦死と[[1395年]]([[応永]]2年)の了俊の九州探題解任もあって[[守護領国制]]を確立していった{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=142-147}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=422-423,445-446}}。
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