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'''蓑原の合戦'''(みのばるのかっせん)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[天授 (日本)|天授]]5年/[[永和 (日本)|永和]]5年([[1379年]])[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]と[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]
▲'''蓑原の合戦'''(みのばるのかっせん)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[天授 (日本)|天授]]5年/[[永和 (日本)|永和]]5年([[1379年]])[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]と[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]<ref>通説では天授3年/永和3年に勃発したとする見方があったが、今川方の武将の軍忠状に「島津越後入道」と氏久が出家していることが書かれていて、氏久の出家は天授5年/[[康暦]]元年(永和3年、[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]に改元)閏4月から翌天授6年/康暦2年([[1380年]])10月にかけての出来事であるため、天授3年/永和3年では矛盾が生じ、軍忠状作成は天授6年/康暦2年に行われ、前年に合戦が行われたことが正しいとする見方が近年に示された。『都城市史』p133 - p134。</ref>に現在の[[宮崎県]][[都城市]]で行われた[[今川満範]]と[[島津氏久]]の合戦である。
== 経過 ==
=== 前史 ===
南北朝時代の[[九州]]は[[南朝 (日本)|南朝]]の[[征西大将軍]][[懐良親王]]と[[菊池武光]]の活動で南朝が優勢で、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[室町幕府]]が度々派遣した[[九州探題]]
しかし、
了俊は[[島津氏]]の打倒を図り
=== 合戦 ===
天授4年/永和4年([[1378年]])3月、了俊は氏久の遅参を理由に大隅国人に三俣院の満範の元へ参陣することを催促、一揆と合流した満範は12月に都之城を包囲した。都之城を守る北郷義久・樺山音久は寡兵ながら奮戦、氏久も[[新納実久]]・[[本田重親]]らを率いて[[志布志城]]から出陣して都之城の後詰に向かい、都之城から南方の天ヶ峰に陣取り、翌天授5年/永和5年(1379年)[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]に天ヶ峰から平波瀬へ移動、[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]に都之城の西方の本の原で両軍は激突した{{sfn|高城町史編集委員会|1989|p=272}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=132,134}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=445}}。
北郷義久も城から打って出て激戦となり、島津軍は義久の弟[[北郷基忠|基忠]]・[[北郷忠宣|忠宣]]と本田重親が戦死したが、満範軍も[[相良頼氏 (小垣)|相良頼氏]](前頼の弟)・伊東祐基・渋谷久清([[祁答院氏]])らの大将が戦死して、合戦は満範軍の敗北となった{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=132,134}}{{sfn|高城町史編集委員会|1989|p=272-273}}。
満範は一旦退い
=== 戦後 ===
都之城は一連の合戦によって包囲からは解放されたが、依然として満範軍は近くに留まっていた。しかし9月になって、叔父重親を殺されたことを怒った[[本田氏親]]が[[姫木城]]と[[清水城 (大隅国)|清水城]]を攻略して、満範軍を敗走させた。満範は戦線を後退させ、[[真幸院]]に兵を集めた。
12月に入ると、日向・薩摩・大隅・肥後の御家人61人が幕府に降った。
合戦後、今川方部将として名和慈冬(または各和慈冬)が満範のいる庄内へ派遣され、天授6年/[[康暦]]2年([[1380年]])に三俣院へ進出した慈冬は国人の再結集を図り、都之城を再包囲して周辺の掃討作戦に取り組んだ。満範も一揆勢を率いて天授6年/康暦2年([[1380年]])、[[弘和]]元年/[[永徳]]元年([[1381年]])に南九州の掃討と都之城包囲を敢行、包囲は失敗に終わったが掃討は進み着実に包囲網を強化しつつあった{{sfn|高城町史編集委員会|1989|p=273}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=135-137}}。
満範は、翌天授6年/[[康暦]]2年([[1380年]])、[[弘和]]元年/[[永徳]]元年([[1381年]])に南九州の掃討と都之城包囲を敢行したが、どちらも失敗に終わった。同年10月に氏久が再び了俊に帰順、再び国人一揆の調略と侵攻を続け、対する了俊も一揆への現実的な対応を取らず一揆の不満が高まり、[[元中]]2年/[[至徳 (日本)|至徳]]2年([[1385年]])に今川方の相良前頼が離反、征西府に帰順したため一揆に加わっていた国人も離反、国人一揆は崩壊した。▼
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元中4年/至徳4年([[1387年]])に氏久が亡くなった後を継いだ子の[[島津元久|元久]]も了俊と対立したが、[[応永]]2年([[1395年]])に了俊が九州探題を解任、(総州家と絶縁した)元久は後に幕府から薩摩・大隅・日向守護職に補任され、南九州における支配権を確立した。▼
▲元中4年/至徳4年([[1387年]])に氏久が亡くなった後を継いだ子の[[島津元久|元久]]も了俊と対立したが、[[応永]]2年([[1395年]])に了俊が九州探題を解任、
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* [[川添昭二]]『今川了俊』[[吉川弘文館]]([[人物叢書]])、1964年。
*
* 都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 中世・近世』[[都城市]]、2005年。
* [[亀田俊和]]・[[杉山一弥]]編『南北朝武将列伝 <small>北朝編</small>』[[戎光祥出版]]、2021年。
* {{Citation |和書|last =|first=|editor=熊本県教育会球磨郡教育支会|year=1941|title =球磨郡誌|publisher =熊本県教育会球磨郡教育支会|url={{NDLDC|1042262/666}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}
== 関連項目 ==
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