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晩年には学者として著作に専念し、『[[難太平記]]』は古典『[[太平記]]』を難ずる意味の歴史書で、応永の乱における自らの立場や、『太平記』に記されない一族の功績を記している{{sfn|川添昭二|1964|p=232-234}}。『難太平記』は『太平記』批判が目的であるかのように広まっているがそうではなく、今川氏の歴史を子孫に伝えるために書いた家訓というべき書物である(題名の難太平記は後人の命名で原書名は不明)。この書物は政道批判の書としての一面があり、自分を九州探題解任に追い込んだ斯波義将・渋川満頼、恩を仇で返した泰範への憎悪、彼等の振る舞いを許した義満への不満が込められている。加えて、応永の乱における満兼の挙兵の正当化と自らの関与否定も書いている{{sfn|桜井英治|2001|p=48-49}}{{sfn|小川剛生|2012|p=192-193}}。
 
故実書『[[今川大双]]』・指南書『[[今川状]]』(または今川壁書)は著作とされるが、後世の作品として否定されている{{sfn|川添昭二|1964|p=205,250-253}}。
 
== 人物 ==