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鈴木三郎左右衛門尉穂積重義|3=航浦院縁起}}
 
以上のように、この大津波により多くの庶人が海底に沈み、江梨鈴木氏の系図と財宝が家屋とともに流出したと記録されている。また、この津波で鈴木繁宗の娘が両眼を患ったため、航浦院の薬師如来に回復を祈ったところ完全に治癒したとされる。
 
繁宗の子・[[鈴木繁朝]](左金吾)の三男とされる[[鈴木繁定]](丹後守、次郎三郎)は[[北条氏政]]から不審船の取り押さえ、他国船の改めなど[[駿河湾]]沿岸警備について頻々と司令を受けていたことが江梨鈴木家文書に残っており<ref>{{Cite web |url=https://ch.kanagawa-museum.jp/dm/gohojyo/collection/m_collection05_01.html |title=江梨鈴木家文書 |access-date=2025年8月7日 |publisher=神奈川県立歴史博物館}}</ref>、河越衆として[[大道寺政繁|大道寺駿河守(政繁)]]に属し[[川越城]]宇佐曲輪に屋敷があったとされる<ref name=":4" />。『[[小田原衆所領役帳]]』に「鈴木次郎三郎(繁定)」が江梨に100貫文の所領役高を有したとある<ref name=":2" />。
 
[[天正]]18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]が後北条氏を攻めた[[小田原征伐]]で後北条氏に従って戦ったが、繁朝の次男・繁精(半左衛門尉)が[[韮山城]]で戦死、繁朝の長男繁光の子・繁脩(大学頭)も[[小田原城]]で戦死するなどして勢力を失った<ref name=":4">{{Cite journal|author=関為彌|date=1986年4月|title=ルーツ探訪(そのニ)江梨鈴木繁朝の嫡子 大学繁脩の父は繁光か|journal=沼津史談|issue=36|pages=21-36|publisher=沼津史談会}}</ref>。