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| 創建年 = 伝・[[宝亀]]元年([[770年]])
| 開山 = 伝・鑑禎
| 中興 = 峯延
| 正式名 = 鞍馬山鞍馬寺
| 別称 = 鞍馬山
| 札所等 = [[新西国三十三箇所]]第19番<br/>[[神仏霊場巡拝の道]]第103番(京都第23番)
| 文化財 = 木造毘沙門天立像木造[[吉祥天]]立像木造善膩師童子立像・鞍馬寺経塚遺物一括ほか([[国宝]])<br/>木造[[聖観音]]立像木造[[兜跋毘沙門天]]立像黒漆剣・剣(無銘)・銅燈篭・鞍馬寺文書ほか([[重要文化財]])<br/>竹伐り会式(市登録[[無形民俗文化財]])
| 公式HP = http://www.kuramadera.or.jp/
| 公式HP名 = 総本山 鞍馬寺
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[[ファイル:Kurama7220.jpg|thumb|200px|僧正ガ谷不動堂]]
[[ファイル:Krama7207.jpg|thumb|200px|冬柏亭、与謝野晶子書斎]]
'''鞍馬寺'''(くらまでら)は、[[京都市]][[左京区]]鞍馬本町にある[[鞍馬弘教]]の[[本山|総本山]]の[[寺院]]。[[山号]]は[[鞍馬山#鞍馬寺との関わり|鞍馬山]](くらまやま<span style="letter-spacing:-0.5em">)</span><!--金剛寿院 ←これは「金剛寿命院」の誤り。これは本坊を指す寺号であり鞍馬山全体を指す寺号は「鞍馬寺」でよい。また松尾山の山号も金剛寿命院のものである。-->。[[本尊]]は「尊天」。「尊天」とは[[毘沙門天|毘沙門天王]]、[[千手観音|千手観世音菩薩]]、[[サナト・クマーラ|護法魔王尊]]の三身一体の本尊であるという。[[開山 (仏教)|開山]]は[[鑑真]]の高弟・鑑禎(がんてい<span style="letter-spacing:-0.5em"></span>。[[新西国三十三箇所]]第19番札所。
 
[[京都盆地]]の北に位置し、豊かな自然環境を残す[[鞍馬山]]の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸([[源義経]])が修行をした地として著名であり、[[能]]の『[[鞍馬天狗 (能)|鞍馬天狗]]』でも知られる。なお、鞍馬寺への輸送機関として[[ケーブルカー]]([[鞍馬寺鞍馬山鋼索鉄道|鞍馬山鋼索鉄道]])を運営しており、[[宗教法人]]としては唯一の[[鉄道事業者]]ともなっている。
 
== 歴史 ==
寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起<span style="letter-spacing:-0.5em"></span>(あんばがいじえんぎ)が草創縁起を伝えておりいる。それによると、[[鑑真]]の高弟で[[律宗]]の鑑禎が[[宝亀]]元年([[770年]])に草庵を結び、[[毘沙門天]]を安置したのが始まりという。鑑禎は、鑑真が[[唐]]から伴ってきた高弟8名のうちの最年少の弟子であった。宝亀3年([[772年]])のある夜、鑑禎は霊夢を見、[[山城国]]の北方に霊山があると告げられる。霊山を尋ねて出かけた鑑禎は、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見る。その山が鞍馬山であった。山に入った鑑禎は女形の鬼に襲われ殺されそうになるが、あわやという時枯れ木が倒れてきて鬼はつぶされてしまった。翌朝になると、そこには毘沙門天の像があったので鑑禎はこれを祀る一寺を建立したという<ref name="歴史">[https://www.kuramadera.or.jp/rekishi.html 鞍馬寺 歴史 2025年9月2日閲覧]</ref>。この鑑禎の話は『鞍馬蓋寺縁起』以外の書物には見えず、どこまで史実を伝えるものかわからない。ただし、[[清水寺]]の草創縁起と同様、南都([[奈良]])の僧が創建にかかわったとしている点は注目される。
 
『[[今昔物語集]]<span style="letter-spacing:-0.5em"></span>『[[扶桑略記]]』など諸書には別の伝承が見られる。それによれば、[[延暦]]15年([[796年]]<span style="letter-spacing:-0.5em"></span>、[[藤原南家]]の出身で造[[東寺]]長官を務めた[[藤原伊勢人]]は、自分の個人的に信仰する[[観音菩薩]]を祀る寺を建てたいと考えていた。伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くとそこには毘沙門天を祀る小堂(上述の鑑禎が建てたものであろう)があった。「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」と伊勢人はいぶかしがった。ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ、「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げた。こうして伊勢人は[[千手観音]]の像をつくって、毘沙門天とともに安置し、鞍馬寺を創建したという<ref name="歴史"/>。この伝承は『[[日本後紀]]』延暦15年([[796年]])の条に東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に現在の鞍馬寺からほど近い[[貴船神社]]の神が現れ鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されていることからほぼ史実であるとわれている。
 
9世紀末の[[寛平]]年間([[889年]] - [[897年]])に[[真言宗]]の十禅師で東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺して中興したころから<ref name="歴史"/>、鞍馬寺は[[真言宗]]寺院となる。[[天慶]]3年([[940年]])には鞍馬山の麓に宮中から由岐大明神が移され、[[由岐神社]]が建立され、鞍馬寺の[[鎮守社]]となった。
 
12世紀に[[延暦寺]]の僧・重怡(じゅうい)が入寺し、[[保延]]年間([[1135年]] - [[1140年]])に[[天台宗]]に改宗し、以後は[[青蓮院]]の支配下にあった。また、天台[[法華経|法華]]・天台[[密教]]・天台[[浄土教|浄土]]が取り入れられるようになる<ref name="歴史"/>
 
[[寛治]]5年([[1091年]])には[[白河天皇|白河上皇]]が参詣、[[承徳]]3年([[1099年]])には[[関白]][[藤原師通]]が参詣するなど、[[平安時代]]後期には広く信仰を集めていたようである<span style="letter-spacing:-0.5em"></span>『[[枕草子]]』は「近うて遠きもの」の例として鞍馬寺の九十九(つづら)折りの参道を挙げている<ref name="歴史"/>
 
鞍馬寺は[[大治 (日本)|大治]]元年([[1126年]])の火災をはじめとして、たびたび焼失しているが、その都度復興されている。
 
平安時代には当寺の[[僧兵]]は[[比叡山]][[延暦寺]]の僧兵に数は劣るものの、より勇猛だと讃えられていたという。また、平安時代末期には[[源義経]](牛若丸)が当寺に入山し、[[天狗]]に兵法を授けられたという伝説がある<ref name="歴史"/>。
[[鎌倉時代]]の[[寛喜]]元年([[1229年]]<span style="letter-spacing:-0.5em">)</span>、青蓮院[[門跡]]座主が鞍馬寺[[検校]]職を兼務する。これ以来、鞍馬寺は正式に青蓮院の末寺となった。しかし、[[江戸時代]]の[[享保]]15年([[1730年]])には青蓮院の他、[[日光市|日光]][[輪王寺]]の末寺ともなった。
 
[[鎌倉時代]]の[[寛喜]]元年([[1229年]]<span style="letter-spacing:-0.5em"></span>、青蓮院[[門跡]]座主が鞍馬寺[[検校]]職を兼務する。これ以来、鞍馬寺は正式に青蓮院の末寺となった。しかし、[[江戸時代]]の[[享保]]15年([[1730年]])には青蓮院の他、[[日光市|日光]][[輪王寺]]の末寺ともなった。
この頃、鞍馬寺には[[塔頭]]が十院(真勝院・月性院・妙寿院・宝積院・大蔵院・吉祥院・戒光院・歓喜院・円光院・福生院<span style="letter-spacing:-0.5em">)</span>、さらに九坊(普門坊・松円坊・妙覚坊・薬師坊・本住坊・乗円坊・梅本坊・実相坊・蔵之坊)が存在し、栄えていた。しかし、[[文化 (元号)|文化]]11年([[1814年]])には一山炎上する大火災があり、以後は衰退してしまう。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[武田信玄]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]などの武将が当寺でしきりに戦勝祈願を行っている<ref name="歴史"/>。
 
[[江戸時代]]の[[享保]]15年([[1730年]])には青蓮院の他、[[日光市|日光]][[輪王寺]]の末寺にもなった。
 
この頃、鞍馬寺には[[塔頭]]が十院(真勝院・月性院・妙寿院・宝積院・大蔵院・吉祥院・戒光院・歓喜院・円光院・福生院<span style="letter-spacing:-0.5em"></span>、さらに九坊(普門坊・松円坊・妙覚坊・薬師坊・本住坊・乗円坊・梅本坊・実相坊・蔵之坊)が存在し、栄えていた<ref name="歴史"/>。しかし、[[文化 (元号)|文化]]11年([[1814年]])には一山炎上する大火災があり、以後は衰退してしまう。
 
そんな中の[[安政]]2年([[1855年]])には日光輪王寺のみの末寺となった。
 
[[1868年]]([[明治]]元年)には再び青蓮院の末寺となり、[[廃仏毀釈]]の後も復興事業を進めていた。しかし、[[1945年]]([[昭和]]20年<span style="letter-spacing:-0.5em"></span>、本殿などが焼失してしまう。このため、現在の堂宇はいずれも新しいものであるが、[[仏像]]などの[[文化財]]は豊富に伝えられている。
 
昭和期の住職・信楽香雲(しがらきこううん)は、[[1947年]](昭和22年)に<!--[[神智学]]の影響を受け-->[[鞍馬弘教]]を開宗。[[1949年]](昭和24年)には当寺は天台宗から独立して鞍馬弘教の総本山となった<ref name="歴史"/>
 
京都の奥にある鞍馬山は[[山岳信仰]]、[[山伏]]による[[密教]]も盛んであった。そのため山の精霊である[[天狗]]もまた鞍馬に住むといわれる。鞍馬に住む大天狗は僧正坊と呼ばれる最高位のものであり、また鞍馬山は天狗にとって最高位の山のひとつであるとされる。
 
== 本尊 ==
京都の北に位置する鞍馬寺は、もともと毘沙門天([[四天王]]のうち北方を守護する)を本尊とし、併せて千手観世音を祀った寺院であった<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=j_NzkrvMu30C 鞍馬寺史] 大正十年</ref>。しかし、鞍馬弘教立教後の現在の鞍馬寺の信仰形態は独特のもので、本尊についても若干の説明を要する。
 
鞍馬弘教立教後の寺の説明によると、鞍馬寺本殿金堂(本堂)の本尊は「尊天」であるとされる。堂内には中央に毘沙門天、向かって右に千手観世音、左には護法魔王尊が安置され、これらの三身を一体として「尊天」と称している。「尊天」とは「すべての生命の生かし存在させる[[宇宙]]エネルギー」であるとする。また、毘沙門天を「光」の象徴にして「[[太陽]]の精霊」・千手観世音を「愛」の象徴にして「[[月]]輪の精霊」・魔王尊を「力」の象徴にして「大地([[地球]])の霊王」としている。鞍馬寺とは、どこにでも存在する「尊天」のパワーが特に多い場所にして、そのパワーに包まれるための道場であるとしている。「尊天」のひとり、「護法魔王尊」([[サナート・クマラ]])とは、650万年前(「650年」の間違いではない<span style="letter-spacing:-0.5em"></span>、[[金星]]から地球に降り立ったもので、その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま、年をとることのない永遠の存在であるという<ref group="注釈">以上の説明は、信楽香仁「くらま山の信仰と歴史」『古寺巡礼京都27 鞍馬寺』(淡交社、1978)、pp.79 - 85による。</ref>。
 
本殿金堂の毘沙門天・千手観世音・護法魔王尊はいずれも[[秘仏]]であり60年に一度丙寅の年のみ開帳されるが、秘仏厨子の前に「お前立ち」と称する代わりの像が常時安置されている。お前立ちの魔王尊像は、背中に羽根をもち、長いひげをたくわえた仙人のような姿で、鼻が高い。光背は木の葉でできている。[[多宝塔]]に安置の護法魔王尊像も同じような姿をしている。このことから「鞍馬天狗」とはもともと護法魔王尊であったと思われる。また、16歳とされているわりに歳をとった姿をしている。
 
== 境内 ==
* 本殿金堂 - [[1971年]]([[昭和]]46年)再建。三尊尊天を祀る。尊天のうち[[千手観音|千手観世音菩薩]]は[[新西国三十三箇所]]第19番札所の本尊である。建てられている場所は標高410メートルとなっている。自由に入ることができる地下階もあり「宝殿」と称する<ref name="山内案内">[https://www.kuramadera.or.jp/annai.html 鞍馬寺 山内案内 2025年9月2日閲覧]</ref>。薄暗い室内の壁には骨壷のようなものが並べられているが、骨壷ではなく「清浄髪奉納」と称する、生きている人の髪の毛を収めたものである。最奥部には「尊天」3像の分身像が祀られている。堂は6時頃から16時15分頃までの開扉で、地下「宝殿」は6時頃から15時45分頃まで入室可能。本殿金堂前にある金剛床は、[[宇宙]]のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模している<ref name="山内案内"/>
* 光明心殿 - 護法魔王尊を祀る<ref name="山内案内"/>
* 閼伽井護法善神社
* 本坊(金剛寿命院) - 塔頭の松尾山金剛寿命院。当寺の本坊を兼ねているほか、鞍馬弘教宗務本庁が置かれている<ref name="山内案内"/>。
* 本坊(金剛寿命院)
** 庭園「瑞風庭」 - 奥の院に護法魔王尊が降臨する様子を表現している<ref name="山内案内"/>。
* 転法輪堂 - [[1969年]](昭和44年)再建。舞台造りのコンクリート建築。堂は6時頃から15時45分頃まで入堂可能。1階は「洗心亭」と称し、以前は飲食店であったが、現在は土休日に開く売店無料休憩所、ギャラリーとなっている<ref name="山内案内"/>
* [[与謝野鉄幹]]・[[与謝野晶子]][[歌碑]]
* 霊宝殿(鞍馬山[[博物館]]) - 本殿裏にある。1階は鞍馬山自然博物苑で、鞍馬山の動植物に関する展示がある。2階は寺宝展室で、現在は企画展示を行っている。かつてはまた与謝野鉄幹・与謝野晶子の遺品等を展示した与謝野記念室った(鞍馬弘教を開宗した信楽香雲は与謝野門下の歌人であった)が、長く閉室中である。3階は仏像奉安室で、[[国宝]]の木造[[毘沙門天]]立像、木造[[吉祥天]]立像、木造善膩師童子(ぜんにしどうじ)立像の三尊像をはじめとする文化財が展示されている<ref name="霊宝殿(鞍馬山博物館)">[https://www.kuramadera.or.jp/reihoden.html 鞍馬寺 霊宝殿(鞍馬山博物館) 2025年9月2日閲覧]</ref>。鞍馬寺の本尊はこの毘沙門天の三尊像であったとする説や、同じく霊宝館に安置されている[[平安時代]]後期の[[重要文化財]][[兜跋毘沙門天]](とばつびしゃもんてん)の姿と近いものでなかったかとする説もある。平安時代中期以降の末法思想から生み出された[[経塚]]遺跡からの発掘品も見ることができる。
* 冬柏亭 - 与謝野晶子書斎[[東京]]から移築した<ref name="山内案内"/>
* 奥の院門 - 冬柏亭から少し奥の院側に登ったところにあったが、2018年の台風で倒壊した。再建するかは未定のため、現在は礎石等が残されているのみである。
* 息つぎの水 - 牛若丸([[源義経]])が東光坊から奥の院へ兵法の修行に通う途中、この清水を汲んで喉の渇きを潤したと伝えられている<ref>小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.206 ISBN 9784569616186</ref>。
* 屏風坂の地蔵堂(革堂の地蔵尊)
* 背比べ石 - [[奥州]]に下る牛若丸が名残を惜しんで背を比べたといわれる石<ref name="山内案内"/>。標高は485メートル。
* 遮那王堂 - 背比べ石のすぐ右側にある小堂。なぜか、現地には一切堂名の案内や表示がなく、公式ホームページでも案内がない。後述の義経堂と同様に義経公を遮那王尊として祀る。
* 木の根道 - この辺り一帯の砂岩によって木の根が地下に伸ばせず、根が地表面でアラベスク模様を描く。牛若丸はここで兵法修行をしたと伝えられている<ref name="山内案内"/>。
* 大杉権現 - 護法魔王尊影向(ようごう)の[[杉]]として信仰を集める。2018年(平成30年)の台風で倒壊し、再建準備中。この辺りは大杉苑瞑想道場と呼ばれ、護法魔王尊のエネルギーの高い場所であるという<ref name="山内案内"/>
* 義経堂 - 義経公を遮那王尊として祀る。
* 義経堂 - 牛若丸を遮那王尊として祀る。この辺りは僧正ガ谷と呼ばれ、牛若丸が天狗に兵法を習った場所であるという<ref name="山内案内"/>。
* 僧正ガ谷不動堂 - 謡曲の[[鞍馬天狗]]が牛若丸と出会ったといわれる所。堂内には伝教大師([[最澄]])が一刀三礼を尽くして刻んだと伝えられる[[不動明王]]が安置されている<ref name="山内案内"/>
* 奥の院魔王殿 - 本殿から西の[[貴船神社]]へ抜ける山道の途中、奇岩・磐坐の上にある小堂。650万年前に[[金星]]から[[地球]]来てこの磐坐に降り立ったという魔王尊([[サナート・クマラ]])を祀っている<ref name="山内案内"/>。現在の建物は[[1945年]](昭和20年)の焼失後の再建。標高435メートル。
* 西門
* 寝殿 - [[貞明皇后]]の行啓の際に休息所とするために[[1924年]]([[大正]]13年)てたもの。如法写経会の道場<ref name="山内案内"/>
* 巽の[[弁財天]]社
* [[弥勒]]堂
* [[多宝塔]] - 本殿東側にあったが、[[江戸時代]]後期に焼失した。現在のものは、ケーブルカー開通後の[[1960年]](昭和35年)に場所を移して再建された。現在位置は標高370メートル。塔内は毎月1日・7日、正月三が日、初寅大祭の日の8時30分頃から16時頃まで開扉され公開される。塔内には中央に舎利宝塔が、四隅には「尊天」三像と多宝塔再建時の寄進者名を収めた厨子が祀られている。
* ケーブル[[多宝塔駅]](山上駅)
* 中門 - 元は山麓の仁王門の横にあった[[勅使]]門。勅使が通る門<ref name="山内案内"/>
* 九十九折参道 - [[清少納言]]が『[[枕草子]]』で「近うて遠きもの」の一例として「くらまの九十九折といふ道」と記した坂道<ref name="山内案内"/>
* 双福苑
* 川上地蔵堂 - 牛若丸の守り本尊である[[地蔵菩薩]]が祀られている。
* 玉杉[[大黒天]]社
* 玉杉[[えびす|恵比寿]]尊社
* 川上地蔵堂 - 牛若丸の守り本尊である[[地蔵菩薩]]が祀られている<ref name="山内案内"/>
* 東光坊跡(とうこうぼうあと) - 平安時代末期に牛若丸が7歳から約10年間住んでいた場所であるという。
* 義経公供養塔 - 東光坊の跡地に[[1940年]](昭和15年)に建立された源義経を祀る石造[[供養塔]]<ref name="山内案内"/>
* [[由岐神社]] - 元は鞍馬寺の[[鎮守社]]<ref name="山内案内"/>。現在は独立している。
* [[鬼一法眼]]社(きいちほうげんしゃ) - 牛若丸に[[兵法]]を授けたといわれる鬼一法眼を祀る<ref name="山内案内"/>。2018年(平成30年)の台風で、倒木により破損し解体された。現在、再建準備中。
* 魔王乃滝 - 鬼一法眼社の横を流れる[[滝]]。2018年(平成30年)の台風で崩壊したが、2024年(令和6年)に再建された。。
* 吉鞍[[稲荷社]]
* 放生池
* ケーブル普明殿([[山門駅]]) - [[1957年]](昭和32年)に敷設された鞍馬山[[ケーブルカー|ケーブル]]([[鞍馬寺鞍馬山鋼索鉄道|鞍馬山鋼索鉄道]])の駅<ref name="山内案内"/>。標高250メートル。
* 歓喜院・修養道場 - [[1964年]](昭和39年)建立。
* 鳥樞沙摩明王殿(山麓お手洗い)
* [[仁王]]門 - 創建は[[寿永]]年間([[1182年]] - [[1184年]]、平安時代最末期)と伝えられる。[[1891年]]([[明治]]24年)に焼失し、[[1911年]](明治44年)に再建された。左側の扉1枚は寿永年間の頃のものと考えられている。安置されている[[仁王像]]は[[湛慶]]([[運慶]]の[[嫡男]])の作と伝えられ、再建時に[[丹波国]]から移されたという。
* 歓喜院・修養道場 - [[1964年]](昭和39年)建立。廃絶した山内の十院九坊を一棟に結集させたもの<ref name="山内案内"/>
* [[仁王]]門 - 創建は[[寿永]]年間([[1182年]] - [[1184年]]、平安時代最末期と伝えられる。[[1891年]]([[明治]]24年)に焼失し、[[1911年]](明治44年)に再建された。左側の扉1枚は寿永年間の頃のものと考えられている。安置されている[[仁王像]]は[[湛慶]]([[運慶]]の[[嫡男]])の作と伝えられ<ref name="山内案内"/>、再建時に[[丹波国]]から移されたという。
 
== 文化財 ==
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[[ファイル:Kuramadera Monastery Kichijoten (334).jpg|thumb|160px|吉祥天立像]]
=== 国宝 ===
* 木造[[毘沙門天]]立像木造[[吉祥天]]立像木造善膩師童子(ぜんにしどうじ)立像
* 鞍馬寺経塚遺物 一括
** 石[[宝塔]](旧塚上所在)1基
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* [[鞍馬の火祭]](10月22日) - 仁王門近くにある[[由岐神社]]の祭礼。鞍馬寺主催ではないが、かつては鞍馬寺の祭りでもあった。
 
== 交通所在地 ==
* 京都府京都市左京区鞍馬本町1074
 
== アクセス ==
;京都市内から鞍馬寺前まで
:[[叡山電鉄]][[出町柳駅]]から[[叡山電鉄鞍馬線|鞍馬線]] [[出町柳駅]]から乗ると約30分で[[鞍馬駅]]に着く。駅を出て徒歩2分で仁王門(山門)に至る。
:*その叡山電鉄の親会社である[[京阪電気鉄道]]では、同社との共同企画乗車券「鞍馬・貴船1dayチケット」を出町柳駅を除く[[京阪本線|京阪線]]系統すべての駅で発売しており、拝観の際に本券を受付に提示すると、境内への入場料である「愛山費」が大人通常500円のところを優待料金の400円で拝観できる<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120723110250/http://www.keihan.co.jp/traffic/valueticket/ticket/kifune_2012/ 鞍馬・貴船1dayチケット 優待特典一覧]}} - 京阪電気鉄道</ref>。
:京都市地下鉄烏丸線の国際会館駅から京都バス52系統に乗ると約30分で鞍馬停留所に着く、停留所より徒歩1分で仁王門に至る。なお、[[地下鉄・バス一日券]]では、運賃均一区間の境界である市原からの差額運賃である、片道200円の追加料金が必要となる。また、バスは7時台までの早朝や夜間は市原止まりとなり、鞍馬・貴船までは運行していない。そのため、早朝に国際会館駅に到着した場合は、市原駅前バス停までバスで行き、[[市原駅]]から叡電に乗り換えるか、国際会館駅から10分余り歩いて叡電の[[岩倉駅 (京都府)|岩倉駅]]まで行く必要がある。地下鉄烏丸線には[[鞍馬口駅]]があり、ここで誤って下車する人がいるため、国際会館駅まで乗車する旨の自動アナウンスがある。
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** これら3つの代金は、[[身体障害者手帳]]の持参人と、付添人1名は手帳の等級に関係なく無料となる。
 
=== 夜間の拝観 ===
前述の通り、入口の門は24時間開かれており、夜間でも拝観可能である。しかし入口前や本殿脇の奥の院入口には「夜間はほとんど灯りがないため、ライト無しでの歩行は危険である」「野生生物が出没する」との表示がある。実際には山門から本殿までは、常夜灯が点灯しており、ほぼ懐中電灯なしでも参拝できる。由岐神社あたりは神社境内経由のほうが明るい。ただ、本殿下の「転法輪堂」から上は常夜灯の数が減り、スマートフォン等の明かりが欲しい場所がある。本殿前も夜間の祭礼時以外は明かりがほとんどない。本殿から貴船までは真っ暗となるので、足元の悪さもあり明るい懐中電灯が必要である。すべての堂は閉扉しているので、屋外からの参拝となる。