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=== 明治天皇 ===
[[1912年]]([[明治]]45年)[[7月30日]]0時43分(実際は[[7月29日]]22時43分) 糖尿病性の慢性腎不全による[[尿毒症]]のため[[明治宮殿]]奥宮殿の御常御殿御座所で[[崩御]]した[[明治天皇]](第122代天皇)の大喪儀は、同年([[大正]]元年)[[9月13日]]から[[9月15日]]まで執り行なわれた。
 
崩御当日の7月30日、政府は一連の大喪事務を管轄する「大喪使(たいそうし)」を宮中に設置。翌[[7月31日]]夕刻、遺骸を仮安置した櫬殿(しんでん。[[明治宮殿]]奥宮殿の御常御殿御座所二の間に設置)にて[[大正天皇|天皇]]、[[貞明皇后|皇后]]、[[昭憲皇太后|皇太后]]以下が[[大行天皇]](たいこうてんのう。亡き先帝)に最後の別れを告げる「御拝親訣(ごはいしんけつ)」が、20時からは遺骸を内槽(内棺)に収める「槻殿の儀(御舟入の儀)」が行われ、[[諒闇]](りょうあん)の期間は1年間と定められた。[[8月5日]]には大喪の期日が、[[8月6日]]には陵所造営地が「[[京都府]][[紀伊郡]][[京都市伏見区の町名|堀内村]]大字堀内字古城山 [[伏見城]]本丸跡」に決まりそれぞれ告示。8月5日には内槽を銅製の御棺(外棺)に密封する「斂棺(れんかん)の儀」が櫬殿で行われた。[[8月13日]]には霊柩を槻殿から、大喪当日まで安置する殯宮(ひんきゅう、明治宮殿表宮殿正殿に設置)に遷座する「殯宮移御の儀」が、[[8月19日]]には陵所にて「陵所地鎮祭」がそれぞれ挙行された。殯宮では大喪当日まで連日、天皇、皇后、皇族、親族、側近奉仕者、華族、各界代表らが昼夜交代で霊柩に付き添う「殯宮伺候(ひんきゅうしこう)」が続けられた。[[8月25日]]、[[鉄道省|鉄道院]]新橋工場で製造を進めていた霊柩車輌と付属車輌が完成。[[8月27日]]、殯宮にて「追号奉告の儀」が行われ、大行天皇は「明治天皇」と[[諡]](おくりな)された。9月11日、陵所が竣功し、「陵所祓除(りょうしょばつじょ)の儀」が、翌[[9月12日]]には「埋棺前一日祭」が行われた。