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[[1980年]]5月16日、大[[木曜クラブ|角]]主流派に反発する福田・三木・[[中曽根康弘]]反主流派が野党の提出した[[第二次大平内閣|大平]][[内閣不信任案]]に同調する動きを見せ政局は緊迫の度合いを強くしていた。反主流派は不信任案に同調するか否かをめぐり混乱しており、灘尾は午後3時の予定であった衆議院本会議の開会を午後5時まで延期した。反主流派はそれでも結論に達することができず、再延長を申し込んだが、灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し開会を宣言し、大平内閣不信任案は可決された。その後、5月19日に衆議院議長応接室において[[衆議院解散|解散]]となり、初の[[衆参同日選挙]]に突入([[ハプニング解散]])。これをもって議長を退任した。
 
その後は自民党[[自由民主党顧問#党最高顧問|自民党最高顧問]]を務め、[[1982年]]に[[勲一等旭日桐花大綬章]]を受章。[[1983年]]に政界を[[引退]]した(旧広島1区の地盤は[[粟屋敏信]]が引き継ぐ)<ref>19世紀生まれの国会議員としては最後の現職議員だった。</ref>。その後は[[社会福祉協議会|全国社会福祉協議会]]会長や[[日本身体障害者団体連合会]]([[障害者]]団体としては国内最大の組織規模を有する)会長を務めるなど社会福祉事業への関わりを続けた。[[1989年]]3月に長年連れ添った愛妻である敏子が事故で亡くなった際は、灘尾は激しい悲しみに襲われ人目をはばからず嗚咽したという。
 
1994年1月22日、[[東京都]][[世田谷区]]の自宅にて94歳で死去した。