「仮名手本硯高島」の版間の差分
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「塩山の屋舗に土産の徳利」では「塩山邸玄関の場」と「同座敷の場」を[[廻り舞台]]で交互に見せて一幕としたものであるが、初演の時の絵本番付を見るとこのあとさらに返しとしてもう一幕あり、本懐を遂げて引き上げる途中の義士一行の前に与左衛門たちがあらわれ、義士姿の源蔵に会うという件りがあったようだが、この場の初演時の台本が伝わっていないので詳細は不明である。また『黙阿彌全集』所収の台本では役名が「赤垣源蔵」となっているが、初演当時の役割番付を見ると「中垣源蔵」となっているので、上のあらすじでもそれに従った。
この『仮名手本硯高島』は初演当時評判がよく、なかでもこの中垣源蔵の別れの場面が大いに受けたが、源蔵役の小團次が途中で病気になり休演してしまったという<ref>[[仮名手本硯高島#黙阿弥全集|黙阿弥全集]] p.302</ref>。この中垣(赤垣)源蔵はのちに[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]]や[[市川團蔵 (7代目)|七代目市川團蔵]]、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目菊五郎]]も演じている<ref>[[仮名手本硯高島#黙阿弥全集|黙阿弥全集]] pp.884-885</ref>。
本作は黙阿弥にとって最初の忠臣蔵ものであるが、黙阿弥は忠臣蔵ものだけで14作も作っている。その中で義士銘々伝を脚色したのは5度で、本作のほかには、義士達が次第に江戸へ下っていく様子を描いた『東駅(とうかいどう)いろは日記』、「鳩の平右衛門」を脚色した『稽古筆七(けいこふでななつ)いろは』、討ち入り当日を銘々伝に割り当てた『四十七石忠箭計(しじゅうしちこくちゅうやどけい)』、「義平拷問」、「山科閑居」、「島原遊興」、「[[清水一学|清水一角]]」を取り合わせた『忠臣いろは実記』がある<ref>[[#吉田(2004)|吉田(2004)]] p136-137, p160</ref>。
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