「高瞻 (前燕)」の版間の差分
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[[319年]]12月、崔毖は[[遼東郡|遼東]]を支配したものの、士民の多くは[[鮮卑]][[慕容部]]の大人[[慕容廆]]に帰順したことに不満を抱いた。崔毖は慕容廆が士民を抑留していると考え、討伐を目論んだ。[[高句麗]]・[[段部]]・[[宇文部]]に使いを送り、ともに慕容廆を滅ぼすことを約し、慕容部の領地を分割しようと持ちかけた。これを知った高瞻は力諫するものの、崔毖は従わなかった。
高句麗・段部・宇文部は慕容廆討伐に失敗、慕容廆はこれが崔毖の企
[[318年]]、[[慕容廆]]は高瞻の才器を高く評価して将軍に任じようとしたが、高瞻は[[病気|病]]と称して就かなかった。病を理由に固辞されると、慕容廆は幾度も高瞻の元を訪れ、その胸を撫でながら、[[禹|大禹]]が「[[羌|西羌]]」の人、[[文王 (周)|周文王]]が「[[東夷]]」の人であることを挙げながら、「君の病の原因はこちら側にあるのだろう。今、晋室は騒乱の最中にあり、我は諸君と共に世難を清め、帝室([[西晋|晋]]の[[皇帝 (中国)|皇帝]])を翊戴しようと思っているのだ。君は中州([[中原]])の名族であるが、同じ願いを持つ者同士がどうして[[中華思想|華夷]]([[漢民族|漢人]]と[[民族|異民族]])の違いで疎遠にならなければならないのか! そもそも、功業を建てる為にはただ志や計略を問うべきであり、そこでどうして華夷を問うに足りようか!」と、言葉を尽くして翻意を促したが起きることはなかった<ref>{{Cite journal|和書|author=尾崎康 |date=1963-03 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00106199-00000002-0243 |title=北魏における渤海高氏 |journal=斯道文庫論集 |ISSN=0559-7927 |publisher=慶應義塾大学附属研究所斯道文庫 |volume=2 |page=7 |CRID=1050845763876903040 |ref=harv}}</ref>。慕容廆は不快となったものの、主簿[[宋該]]が高瞻の処断を勧めても従うことはなかった。これを聞いた高瞻は不安になり、憂いにより亡くなった。
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