「森小弁」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m Botによる: 典拠管理テンプレートを追加 |
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
||
4行目:
==人物==
元[[土佐藩]]士で裁判所判事<ref>小菅輝雄『たのしい南洋群島 : 旅行する人々への手引き』草土文化、1968年、p.66。</ref>も務めた父:可造と母:加奈の間に生まれる。青年期は[[自由民権運動]]に参加し、[[大阪事件]]で投獄されていた時期もあった。出獄後は、同郷の[[大江卓]]や[[後藤象二郎]]に認められ、活動に参加していたが、いつしか政治不信となり失望してしまう。この頃、[[オセアニア]]・[[東南アジア]]の[[島嶼]]部への[[貿易]]や[[移民]]を提唱する[[南進論]]が起こり、小弁もその影響で在籍していた東京専門学校(現在の[[早稲田大学]])を中退し、明治24年([[1891年]])に小さな南洋貿易商社であった一屋商会に入社。この年の[[12月]]に帆船「天祐丸」に[[横浜港]]から乗船し、ポナペ(現在の[[ポンペイ島]])を経由し、明治25年([[1892年]])現在のチューク諸島のウエノ島に到着した(ちなみに小弁と一緒に渡った[[日本人]]達が初めてのミクロネシア定住者だった)。当時のチューク諸島は[[スペイン]]統治下で、治安が悪く、民族闘争や部族闘争が多発しており、一緒に定住した日本人も惨殺にあったり、小弁も部族闘争にも加わるなど、幾度も命の危険にさらされていた(この時期に小弁は火薬による事故で右手を失っている)。
初渡航から5年経った時期から事業も軌道に乗り始め、小弁の考えも変わり始めていた。小弁は現地の人間との関係を同化することに努力し始める。その時期に春島(現在のウエノ島)イライス村の酋長マヌッピスの長女のイザベルと結婚した(後にイライス村の酋長を小弁が引き継ぐ)。しかし、[[1899年]]に[[米西戦争]]で[[アメリカ]]に敗れたため、スペインによって[[パラオ]]を含む[[カロリン諸島]]が[[ドイツ国|ドイツ]]に売却されると事態が急変する。この頃、小弁の周りには小さな日本人社会が形成されつつあったが、ドイツの策略で全ての日本人がチュークから追放される事態が起こった。小弁はドイツの国策会社と契約するなど智策を駆使しチュークにとどまることができた。[[1915年]](大正4年)3月にチューク諸島が日本軍に占領されると小弁はそれを機に独立する(日本軍占領以前のドイツ統治下時代から、パラオを含むカロリン諸島は日本との経済関係を強化していたため、日本に依存していた。[[南洋庁]]が設置されて以降、8万5千人に及ぶ日本人が移住し、現地で商売を始めた移住者により、現地の経済を活発にしていたという)。
|