削除された内容 追加された内容
日本軍のカナダとアメリカ本土基地攻撃: 出典がない大言壮語的な内容や戦争の経過と直接関係のない内容を削除しました
背景(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ): 出典がない上、第二次世界大戦の背景としては不必要(かつ不自然)に詳細に書かれた内容を削除しました
601行目:
この事件の結果[[広田弘毅]]が首相に就いたが、組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平が出た。「好ましからざる人物」として指名されたのは[[吉田茂]](外相)、[[川崎卓吉]](内相)、[[小原直]](法相)、[[下村海南]]、[[中島知久平]]である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務した。さらに陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。
 
1931年には「[[三月事件]]」、1934年には「[[陸軍士官学校事件]]」が起こり、当時の日本では、このように選挙で選ばれたわけでもない単なる軍人(役人)が、国が自分の気に入らない方向に向かうと、武力でクーデターを起こして自らの向かう方向に仕向け、さらに陸海軍が組閣に口を出すことが度々起き、まかり通るようになった。さらに[[1936年]]5月に軍部は[[広田内閣]]に圧力を加え、一度は廃止された[[軍部大臣現役武官制]]を復活させた。この様に、[[1910年代]]以降日本に浸透してきていた議会制民主主義は、1930年代中盤以降急激に[[軍国主義]]に傾いていく{{要出典|date=2025-09-22}}
 
==== 軍部大臣現役武官制復活====
さらに[[1936年]]5月に軍部は[[広田内閣]]に圧力を加え、一度は廃止された[[軍部大臣現役武官制]]を復活させた。この制度復活の目的には、「二・二六事件への関与が疑われた予備役武官(事件への関与が疑われた[[荒木貞夫]]や[[真崎甚三郎]]が、事件後に予備役に編入されていた)を、軍部大臣に就かせない」ということが挙げられていた。
 
広田内閣は[[腹切り問答]]によって陸軍大臣と対立し、議会を解散する要求を拒絶する代わりに[[1937年]]2月に総辞職に追い込まれた。その後、[[宇垣一成]]予備役陸軍大将に対して天皇から首相候補に指名されて[[大命降下]]があった際、陸軍から陸軍大臣の候補者を出さず、当時現役軍人で陸軍大臣を引き受けてくれそうな小磯国昭朝鮮軍司令官に依頼するも断られ、自身が陸相兼任するために「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう[[湯浅倉平]][[内大臣府|内大臣]]に打診したが、同意を得られなかったため、組閣を断念した。この様に、[[1910年代]]以降日本に浸透してきていた議会制民主主義は、1930年代中盤以降急激に[[軍国主義]]に傾いていく。
 
==== 西安事件と国共合作 ====