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さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部は、アメリカの大統領[[ハリー・S・トルーマン]]の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪いで[[軍政]]を敷くという[[三布告|布告]]を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。
 
これに対して日本の外相[[重光葵]]は、マッカーサー最高司日本が連合国軍の命'''「占領軍忠実従ってい現在の状態で軍政は日本の主権認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツ敷くこ日本違う。ドイツは([[フレンスブルク政府]]占領軍よう利益)政府が壊滅したが日本には政府が存在する」'''ならない猛烈に抗議マッカーサー最高司令官に布告の即時取り下げを強く要求した。重光の抗議の結果、連合国軍即時に重光の抗議を認め、トルーマンの布告の即時取り下げを行い、'''英米による占領策は日本政府実施令撤回した間接統治となった'''([[連合国軍占領下の日本]]も参照)<ref>[http://nagaikazu.la.coocan.jp/GHQFILM/DOCUMENTS/Missouri/sugita2.html 杉田一次の回想-2-]([[杉田一次]]著『情報なき戦争指導』)映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- [[永井和]]京都大学教授</ref>{{Efn|永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、[[無条件降伏]]があくまで[[日本軍]]に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。}}。
 
[[ファイル:Correspondents_interview_"Tokyo_Rose."_Iva_Toguri,_American-born_Japanese._-_NARA_-_520994.tif|right|thumb|GHQによる取調べを受ける「東京ローズ」の1人であるアイバ・戸栗・ダキノ]]
[[画像:RIAN archive 834147 Hoisting the banner in Port-Artur. WWII (1941-1945).jpg|thumb|[[旅順口区]]を不法占領したソ連軍(9月15日)]]
3日には連合国軍最高司令官総司令部よりすべての航空機の飛行が禁止されたほか、漁船を含む船舶の一切の移動が禁じられた。また日本本土を含めた占領下に残った日本軍所有の航空機や船舶、戦闘車両や銃火器、[[刀]]など、すべての武器の連合国軍への引き渡しが横須賀や[[追浜]]、厚木や[[佐世保市|佐世保]]などの大規模な基地より始まった。これらの武器の引き渡しは順調に進み、引き渡しを行う日本軍将兵と連合国将兵の間には笑顔もみられた。なお日本軍憲兵や警察の持つ銃やサーベルは、治安維持のためにこの限りではなかった。
 
マッカーサー最高司令官は9月8日まで横浜の[[ホテルニューグランド]]に宿泊し、そのあと東京のアメリカ大使館に入っている<ref>『大日本帝国の興亡 5』ジョン・トーランド 早川文庫 p.317</ref>。合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し<ref>『大日本帝国の興亡5』[[ジョン・トーランド]]著 早川書房 p.318</ref>、のちに[[極東国際軍事裁判]]などで裁かれた。日本での戦犯逮捕を指揮した[[エリオット・ソープ]]CIC部長は、[[法の不遡及|遡及法]]でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサー最高司令官に「戦犯を亡命させてはどうか」と提案したことがあったが、マッカーサー最高司令官は「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという{{sfn|増田|2009|p=332}}。さらに後年、「極東国際軍事裁判は失敗であった」と悔やんでいる{{sfn|袖井|1982|p=122}}。最終的に逮捕したA級戦犯の容疑者は126名となった。