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Kinori (会話 | 投稿記録)
 
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=== 漢軍との戦い ===
その後、時期は不明だが、荘尤は[[大司農|納言]]将軍(「納言」は大司農に相当)として復帰し、[[地皇 (元号)|地皇]]3年([[22年]])、[[秩宗]]将軍陳茂と共に、[[王常 (後漢)|王常]]率いる[[荊州]]の反新軍である下江軍を撃破している。しかし、翌地皇4年([[23年]])、荘尤と陳茂は、[[劉縯]]率いる反新軍に育陽(南陽郡)で敗北した。そのため、荘尤・陳茂は、荊州の[[更始帝]](劉玄)を討伐するための[[司空|大司空]][[王邑]]・[[司徒|大司徒]][[王尋]]の新軍主力部隊に合流している。
 
同年5月、漢(更始帝政権)の大司徒となっていた劉縯は、宛(南陽郡。荊州の中心地)を攻撃した。しかし王邑らは、宛に向かう前に、漢に占領されていた昆陽(潁川郡)をまず包囲、陥落させようとした。荘尤は、劉縯を討ち取ることが重要であるとして宛への攻撃を進言したが、王邑らは聞かず、昆陽を包囲し続けた。また、昆陽に立て籠もっていた漢軍の[[王鳳 (更始)|王鳳]]が降伏しようとすると、王邑はこれを赦さず、さらに包囲を強める。荘尤は、戦意を失っている敵に対しては、逃げ道を一方向だけ作るべきである旨を進言したが、これも受け入れられなかった。その結果、王鳳らは必死になって新軍に抵抗してしまう。昆陽攻略に梃子摺っている間に、宛は劉縯に陥落させられ、さらに翌月、昆陽城を脱出していた漢軍の[[光武帝|劉秀]]が援軍を連れて戻り、王邑らの軍は大敗を喫した([[昆陽の戦い]])。