「第二次世界大戦」の版間の差分
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1942年11月、横浜港に停泊中のドイツ海軍の[[仮装巡洋艦]]「ウッカーマルク」が大爆発を起こして轟沈する「[[横浜港ドイツ軍艦爆発事件]]」が起きた。多くのドイツ海軍の乗組員が被害を受けたが、爆発の原因は、大規模な被害により物証となるものが破壊されてしまった上に、戦時中のことであり現在でも明らかになっていない。連合国のスパイの犯行とも噂されたが、目撃者の証言などからウッカーマルクの油槽の清掃作業中の作業員の喫煙との説が有力である<ref name="ドイツ大使館">エルヴィン・ヴィッケルト著『戦時下ドイツ大使館 {{small|ある駐日外交官の証言}}』中央公論社、1998年、ISBN 4-12-002745-7</ref>。この事故により、[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の[[将兵]]ら61人、中国人労働者36人、日本人労働者や住人など5人の合計102名が犠牲になり、周辺の住民や労働者、ドイツ海軍艦船を見学に来ていたドイツ[[大使館]]員のエルヴィン・ヴィッケルトをはじめ多数の重軽傷者を出した{{R|ドイツ大使館}}。
また、ウッカーマルクとその近辺に停泊していたドイツ海軍の仮装巡洋艦「[[トール (仮装巡洋艦)|トール]]」、およびトールに[[拿捕]]された[[オーストラリア]]船籍の客船「ナンキン」(拿捕後「ロイテン」と改名)、中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」の合計4隻が失われ、横浜港内の設備が甚大な被害を受けた<ref>高松宮日記5巻、261頁(欄外解説より)</ref>。なお、1944年秋に300人の生徒を持つ独逸学園が軽井沢に疎開し{{R|dsty.ac.jp}}、[[基幹学校|ハウプトシューレ]]は解散された。1945年からはユダヤ系ドイツ人の抑留が開始されている{{sfn|小宮まゆみ|1999|p=31-32}}。
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東京や関東にいたドイツ人は、6月以降戦争終結まで[[富士五湖]]近辺や軽井沢などの地方の別荘地などに送られた{{R|autogenerated3}}。その頃はもはや日本人よりこれらの地に「収容」されている感じはなく、旧同盟国人が「軟禁」されている状況で、行動は許可が必要になったが軍機以外の場所は比較的自由で、撃墜された連合国軍のパイロットと間違われるのが唯一避けるべき行動であったという。
今や国家として存在しなくなったドイツが日本にとって事実上の「敵国」となり、スターマー旧大使以下全ての大使館員らが軟禁された6月以降も、マイジンガーは日本の[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]や[[特別高等警察|特高]]と一種の協力関係を持ち、自動車の利用も許され、東京と大使らが軟禁されていた[[箱根]]の[[富士屋ホテル]]、他の大使館員らが軟禁状態に置かれた河口湖の富士ビューホテルを行き来しつつ、「反ナチス的」と目された在留ドイツ人の情報を憲兵隊や特高に流した<ref>{{Cite journal ja |author=[[荒井訓]] |title=資料 終戦前滞日ドイツ人の体験(2)終戦前滞日ドイツ人メモワール聞取り調査 |url=https://hdl.handle.net/2065/6043 |journal=文化論集 |publisher=早稲田商学同攻會 |date=March 2000 |issue=16 |pages=269-311 |naid=120000791990 |hdl=2065/6043 |issn=09184589}}</ref>。
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==== 敵性国 ====
1941年に入り日英や日米関係が悪化する中、イギリスやオーストラリア、アメリカ、オランダ、カナダ、英領インド人など
▲1941年に入り日英や日米関係が悪化する中、イギリスやオーストラリア、オランダ、カナダ、英領インド人などの第二次世界大戦の交戦国民や、アメリカやカナダなどの後の連合国民はその多くが帰国した{{R|敵国人抑留}}。
またこれらの国の大使以下大使館員は、自宅にものを取りに行く以外は地元警察と特高に守られた大使館にいることを余儀なくされた。アメリカの場合では、その後大使館や領事館員とその家族と一緒に、[[静岡県]]にある「[[川奈ホテル]]」に行くことを指示された<ref>「青年外交官の太平洋戦争」藤山楢一 新潮社 P.104</ref>。なおアメリカの利益代表となったスイスの大使館員が、外務省との連絡に当たった。
なお、1941年12月
全ての民間人抑留者の情報は、戦時国際法に則りスイスの[[ジュネーブ]]の[[赤十字国際委員会]]に置かれた中央捕虜情報局に置かれることとなった。委員会駐日代表フリッツ・パヴァラッツイーニ[[博士]]が、各地で数回にわたり中立国の局員の収容所の見学や聞き取りを行ったが、生活や食事、医療や待遇などについての言動は日本側からは制限を課されず自由に行われた{{R|ぼくは日本兵だった}}。その結果、苦情は皆無ではなかったものの、おおむね良好であった<ref name="ぼくは日本兵だった">『ぼくは日本兵だった』J・B・ハリス(旺文社、1986年)</ref>。
抑留、逮捕されるのは45歳以上の男子に限り、女性や子供は対象外であったが、男子でも45歳以上というのは地方
しかし1942年9月以降方針が変わり、修道女や教師などの女性独身者と、宣教師や教師などの男性高齢者も警察により抑留された。これはアメリカやイギリスなどが、[[僧侶]]や教師も関係なく、[[日系人の強制収容|日本人の抑留者を男女年齢問わず強制収容所]]に入れていたためであり、これらの国との相互主義に基づくものであった。なお、結婚女性や娘などは例外のままであった{{R|敵国人抑留}}。
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また、戦時中に日本海軍やドイツ海軍、イタリア海軍の軍艦によって拿捕されて、横浜港や神戸港などに連行されたイギリスやオーストラリア、アメリカなどの連合国の軍艦に乗務する民間の乗務員や、民間船の船員や搭乗者なども、民間抑留者として抑留先に入れられた。これらの敵性国抑留者の多くは、1942年から1943年にかけてアメリカとイギリスとの間に3回運航された[[交換船]]{{R|滞日十年_p336}}で、同じくイギリスやアメリカなどの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本人やタイ人、ドイツ人の駐在員や外交官などの民間人と交換される形で帰国した{{R|日米交換船}}
対英米蘭戦の開戦後は、敵対国民は[[横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ]]や[[神戸リガッタ・アンド・アスレチック・倶楽部]]などの社交クラブから強制退会され、会長は枢軸国民となった。また戦前より日本に進出していた[[IBM]]や[[香港上海銀行]]、[[ゼネラル・モーターズ]]やフォード・モーター、[[スタンダード・オイル]]や[[帝国製糸]]などの企業の資産は、戦中は日本政府により没収され、全て[[三菱信託銀行]]をはじめとする[[信託銀行]]に管理された{{R|日米交換船}}。これらの資産は民間銀行できちんと管理され、アメリカのように勝手に売却されることなく、戦後にきちんと返還された{{R|敵国人抑留}}。
横浜ヨットクラブや[[根岸競馬場]]などのクラブハウス、船員会館や[[スワイヤー・グループ|バターフィールド・アンド・スワイアー]]の社宅、[[神戸]]ではイースタンロッジなどのホテルやカナディアン・スクールの寄宿舎などの洋風施設など、全国34か所が民間人抑留先に指定されたが、広島県や福岡県、北海道や福島県などの地方では洋風の施設がある抑留先を探すのはままならず、[[教会]]や[[修道院]]、[[保育園]]または自宅などが多かった{{R|敵国人抑留}}。
また、1943年中頃の第二次日米交換船の行き来により民間人抑留者が劇的に減った後、同年暮れに抑留先が再編され、同時期にバンドホテルがドイツ海軍に借り上げられたことなどから、神奈川県の抑留所が[[横浜市]][[戸塚区]]や神奈川県箱根、厚木市七沢、[[足柄]]の[[学校法人暁星学園|暁星学園]]の寮などに抑留先が移ったり、自宅に残っていた無職の老人や、妻などの家庭婦人、子どもまで対象になるなどの変更があった<ref name="横浜と外国人社会">『横浜と外国人社会―激動の20世紀を生きた人々』横浜外国人社会研究会、横浜開港資料館編集</ref>。最終的には、日本国内の連合国の民間人抑留所で一時的なものを含むと、北海道から九州まで全国50か所以上に上った。なお、これらの民間人抑留施設の家賃(から引っ越し代や食事代、治療費に至る)まで全て日本政府から終戦に至るまで支払われていたか、政府により施設そのものが買い取られていた。
食事は当初、都会のホテルやクラブハウスでは洋食をベースにした豪勢なものが提供されることも多く、他の民間人抑留先でも外国人であることを考慮し肉やパン、スープなどもあった上に、1日3食で量も比較的考慮されていたため、日本人から「豪勢だ」と批判が出たり、
1943年中頃の日英米交換船の終了までは、先方に抑留されている日本人や同盟国人への配慮もあり、量や質もそれなりに配慮されたが、1944年以降はその量と質も外の配給とともに少なくなっていった上に、配給だけでは足らずに、愛知県のイタリア王国人向け民間人抑留所をはじめ、抑留者自ら農作業をし自らの食料を調達することも多くなった。また
▲食事は当初、都会のホテルやクラブハウスでは洋食をベースにした豪勢なものが提供されることも多く、他の民間人抑留先でも外国人であることを考慮し肉やパン、スープなどもあった上に、1日3食で量も比較的考慮されていたため、日本人から「豪勢だ」と批判が出たり、民間人抑留者の中には太る者も少なくなかった{{R|ぼくは日本兵だった}}。なおこれらの代金は同じく全て日本政府から払われていた。なお妻などの家族や知人の日本人、信者からの差し入れも自由に行われた{{R|敵国人抑留}}。
▲1943年中頃の日英米交換船の終了までは、先方に抑留されている日本人や同盟国人への配慮もあり、量や質もそれなりに配慮されたが、1944年以降はその量と質も外の配給とともに少なくなっていった上に、配給だけでは足らずに、愛知県のイタリア王国人向け民間人抑留所をはじめ、抑留者自ら農作業をし自らの食料を調達することも多くなった。また地方では、抑留所外に住む妻などの家族などの差し入れに対する警察官による横領も多くなっていった{{R|敵国人抑留}}。
また民間人抑留所内では、新聞の購読(しかし英語の新聞は、当時日本政府の管理下にあった「[[ジャパンタイムズ|ジャパンタイムズ&アドバダイザー]]」だけであった<ref>『ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記』P.145 小学館</ref>)や信仰の自由が保障され、[[プロテスタント]]や[[カトリック]]、[[長老派教会]]、また[[ユダヤ教]]の[[僧侶]]や[[牧師]]などによる[[ミサ]]なども自由に行われた<ref>『清里の父ポール・ラッシュ伝』 ユニバース 1993年</ref>。
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さらに1945年には九州への連合国侵攻が危惧される情勢となり、8月15日の降伏発表まで抑留は続いた。15日にほとんどの民間人抑留所と連合国の捕虜収容所で日本の降伏と解散が申し伝えられたが、16日以降も治安維持の観点や、抑留所や捕虜収容所に対して慰問袋や食料品などが連合国軍機から投下されたことから、数日間から数週間は抑留先へとどまるものも多かった{{R|横浜と外国人社会}}。なお全国11か所の抑留所や、数十の捕虜収容所に対して慰問袋や食料品などを落とす連合軍機などが、停戦後の8月中旬から9月初旬にわたり[[日本におけるアメリカ軍機事故の一覧|5機も墜落]]している。
戦時中に3度に渡って行われた日英米交換船により、終戦時には抑留所に置かれた民間人抑留者は609人に減っており、一部のドイツ人やフランス人など、1945年以降の戦況により敵国人となり、新たに「軟禁」された者を含めると民間人抑留者は850人以上が確認されている(抑留所に入れられた者のみ。ホテルや旅館、自宅などに軟禁されていた者数千人は除く)
=== ドイツ ===
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