「第二次世界大戦の背景」の版間の差分

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第一次世界大戦のヨーロッパの戦勝国は、国土が戦火に見舞われなかったアメリカに対し多額の債務を抱えることになった。その後債権国のアメリカは未曾有の好景気に沸いたものの、[[1929年]]10月に[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]における[[株価]]大暴落から始まった[[世界恐慌]]は、ヨーロッパや日本にもまたたくまに波及し、社会主義国であるソビエト連邦を除く主要[[資本主義]]国の[[経済]]に大きな打撃を与えた。
 
この世界恐慌を打開するため、植民地を持つ大国は自国と植民地による排他的な経済圏いわゆる[[ブロック経済]]を作り、植民地を持たない(もしくはわずかしか持たない)国々は新たな植民地を求めるべく近隣諸国に進出していった。例として、前者はイギリスの[[スターリング・ポンド|スターリング]]・ブロック、フランスの[[フラン (通貨)|フラン]]・ブロックである。後者は[[1930年代]]の日本による中国大陸での権益確保と事実上の傀儡政権である満洲国の設立<ref>J.M.ロバーツ著、五百旗頭真訳『世界の歴史9 第二次世界大戦と戦後の世界』 (創元社 2003年)p.35{{Full citation needed|date=2025年10月}}</ref>、イタリア王国による[[エチオピア]]の侵略やドイツによるオーストリアの無血占領(併合)が挙げられる。また、後者においては、経済の停滞による政情不安によりファシズム的思想の浸透やそれにともなう軍部の台頭がみられた他、この時期における[[人種差別]]的志向の台頭が顕著なものとなった。
 
=== 石油資源を巡る思惑 ===
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=== フランス ===
[[フランス]]は第一次世界大戦の戦勝国であったものの、西部戦線の主戦場となったため国土は荒廃し甚大な損害を出した。そのためその総てをドイツに賠償金として負わせようとした。また中東欧においてはチェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニアと[[小協商]]を成立させ、ドイツやハンガリーを牽制しようとした。さらには[[普仏戦争]]によって失われた[[アルザス=ロレーヌ]]にとどまらず、[[1923年]]にはルール地方にもベルギーとともに進駐した。<!--その結果炭鉱でストライキが起きたことにより、ドイツ経済はそれまでに進んでいたインフレーションが破滅的な状態に陥ることとなる。(正確性に疑念があるのでコメントアウト)-->
 
フランスはソ連、チェコ、イタリアと協力してヒトラーに対する共同戦線を作ろうとしたが、イギリスの宥和政策によってストレーザ戦線は崩壊した。当初はイギリスとイタリアの関係を取り持つ外交努力を行っていたが、1935年10月にイタリアが[[第二次エチオピア戦争]]を起こすと国際連盟違反として非難し、イタリアと協力戦線を画策していた外相[[ピエール・ラヴァル]]が辞任することとなった{{Sfn|ワット|1995|pp=45-46}}。
 
1936年には[[レオン・ブルム]][[人民戦線]]内閣が成立した。ブルムは大規模な公共事業を行う一方、軍事産業にも多くの予算を投入して国防を充実させつつ不況からの脱出を図った他、労働運動の急進化を牽制しつつ、週40時間労働制、2週間の有給休暇制といった労働政策の充実を進めた。しかし、これらの政策は不況脱出につながらなかった上、その後は政治的混迷期が続き、隣国スペインで行われた内戦など、再度戦争の足音がヨーロッパを覆って来たにも拘らず本格的な戦争への準備はなされないままであった。
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=== ソ連 ===
[[画像:MolotovRibbentropStalin.jpg|thumb|right|独ソ不可侵条約に調印する[[ヴャチェスラフ・モロトフ]](後列中央は[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]とスターリン)]]
[[ウラジーミル・レーニン]]の死後、独裁的な権力を握った[[ヨシフ・スターリン]]は、政敵[[レフ・トロツキー]]の国外追放を皮切りに、反対派を次々と粛清し徹底的に排除することで独裁体制を確かなものにし社会主義路線を確立した。[[大粛清]]時<ref>ピークは1936年から1938年。</ref> には処刑や強制収容所での過酷な労働などによって、一説には1200万人以上の人が粛清された。<ref>J.M.ロバーツ著、五百旗頭真訳『世界の歴史9 第二次世界大戦と戦後の世界』(創元社 2003年)p.88{{Full citation needed|date=2025年10月}}</ref> そのために内政は混乱し、[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]ら有力な[[赤軍]]指導者の多くが粛清され軍備が疲弊していたこともあり、他国との軍事衝突に対しては消極的であった。
 
そのような状況下でスターリンは、軍事強国であるドイツとの対立を回避しながらポーランドや[[バルト三国|バルト3国]]、フィンランドなどを手に入れるために、「天敵」とまで言われたドイツのヒトラーと1939年[[8月23日]]に[[独ソ不可侵条約]]を結び世界を驚かせた<!--だけではなく、1940年6月に[[バルト三国]]に[[ソ連軍]]を進駐させ、[[傀儡政府]]を作って[[ソビエト連邦|ソ連]]に併合した。さらに1941年4月には、かねてから軍事的緊張状態にあった日本との間にも[[日ソ中立条約]]を結んだ。 開戦後のことなので、いったんコメントアウト-->{{要出典|date=2025年10月}}。1938年11月4日のドイツ外務省覚え書きでは、ドイツに必要な資源を調達するため期限切れ前に独ソ経済協定の更新を求めてソ連と協議を行っていたが、ソ連に対してドイツが差し出せる対価が乏しく、翌年3月11日のドイツ経済政策局は交渉決裂も仕方がないと結論に至った{{Sfn|シャイラー|2008|pp=49-50}}。
 
1939年3月10日、スターリンはモスクワで開催された第18回共産党大会の冒頭で長い演説を行った。民主主義国家は集団的安全保障を捨てて非介入や中立政策に転じた事実は明白であり、侵略者の矛先を別の犠牲者に向かわせようとしているものだと断じた。ナチスによるチェコスロバキア占領を阻止する方法について6カ国協議を提案したが、イギリスのチェンバレンに時期尚早と拒否された。対して、ドイツとイタリアの指導者は、このメッセージを正確に受け取り、ソ連との関係改善に一致を見た{{Sfn|シャイラー|2008|pp=50-52}}。
 
4月16日にソ連の外務人民委員はモスクワ駐在英大使を招き、イギリス・フランス・ソ連の3カ国相互援助条約を提案した。[[マクシム・リトヴィノフ|リトヴィーノフ]]最後の対枢軸同盟の提案だった。5月4日にチャーチルは演説で、この同盟が調印されていないことを嘆き、もし、提案を呑まなければ東欧におけるナチスに対抗する軍事力が失われることを指摘したが、イギリスとフランスの政府は困惑し、対応に苦慮した。翌日にはベルリン駐在のメレカーロフがドイツ外務省のヴァイツゼッカーのもとを訪れ、イデオロギーの違いはドイツやイタリアとの関係にこれまで悪影響はなかったし、今後も民主主義国家との対立に利用するつもりはないと前置きし、ソ連とドイツが共存して悪い理由がない以上、正常な関係から改善された関係が生まれるだろうと語った{{Sfn|シャイラー|2008|pp=54-55}}。
 
5月3日にモスクワ新聞は最後のページの小さな欄で人事を報じた。本人の希望によりリトヴィーノフは外務人民委員を辞し、代わって[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]が就任した{{Sfn|シャイラー|2008|p=56}}。
そのような状況下でスターリンは、軍事強国であるドイツとの対立を回避しながらポーランドや[[バルト三国|バルト3国]]、フィンランドなどを手に入れるために、「天敵」とまで言われたドイツのヒトラーと1939年[[8月23日]]に[[独ソ不可侵条約]]を結び世界を驚かせた。<!--だけではなく、1940年6月に[[バルト三国]]に[[ソ連軍]]を進駐させ、[[傀儡政府]]を作って[[ソビエト連邦|ソ連]]に併合した。さらに1941年4月には、かねてから軍事的緊張状態にあった日本との間にも[[日ソ中立条約]]を結んだ。 開戦後のことなので、いったんコメントアウト-->
 
=== ポーランド ===
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また、1935年のイタリアによるエチオピア侵略は、スイスにとって悩みの種を増やした。国際連盟はイタリアへの経済制裁を決定したが、スイスは自分の首を絞めかねない経済制裁に参加を拒否し続けた。
 
1937年のイタリアの国際連盟脱退は、スイスの立場が決定的に苦しいものとなった。スイスにとって国際連盟にとどまり続けることは中立の立場が失われることになりかねないことを意味した。1939年5月、国際連盟に対して、「絶対中立」への回帰を承認させた。このような情勢の中、第二次世界大戦を迎えることとなる<ref>森田安一『物語 スイスの歴史』(中公新書、2000)pp.234-236{{Full citation needed|date=2025年10月}}</ref>。
 
== アジア各国の情勢 ==
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=== 日本 ===
[[第一次世界大戦|第一次大戦]]([[日独戦争]])の勝利により、日本は[[山東半島]]の旧ドイツ権益を獲得したが、それを話し合った[[パリ講和会議]]では、中国大陸の[[門戸開放政策]]を主張する[[アメリカ合衆国|米国]]と対立(また日本は欧米に対し、人種差別撤廃要求をしたことで米英と対立)した<ref name=nhk"nhk2007">2007年2月18日 NHK BS特集『世界から見たニッポン 大正編 日本はなぜ孤立したのか』{{Full citation needed|date=2025年10月}}</ref>。また、[[シベリア出兵]]における日本の積極的な軍事行動へ不信感を持った列強諸国との中国大陸における利権の対立などから、[[日英同盟]]を望まない米国の思惑、人種差別撤廃要求を破棄された日本の欧米への不信感、日英双方国内での日英同盟更新反対論などを背景に、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]が開催され、日英同盟が解消。また[[山東還付条約]]により中国大陸での見込み権益を失った日本政府は、[[起訴便宜主義]]を法制化した。ここから日本は列強国と徐々に離れて行き、孤立しはじめていく<ref name=nhk"nhk2007" />。
 
日本国内では第一次世界大戦の戦勝国として民主化([[大正デモクラシー]])と英米との協調外交とを指向していたが、第一次世界大戦が終結しまもなくヨーロッパ経済が平穏を取り戻すと、戦勝国であり同じく国土に直接的な被害を受けなかったアメリカと同様に、戦争特需による好景気を謳歌していた日本の経済はまもなく不況<ref>シベリア出兵による膨大な出費と、1923年に起きた[[関東大震災]]が更に追い討ちをかけた。</ref> に陥り、さらに世界恐慌がそれに拍車をかける事となった。1923年には[[関東大震災]]に乗じ、議会が反対していた法案が勅令[[治安維持令]]として発布された。[[法曹]]の国粋主義団体としては1924年には[[国本社]]が発足し、また[[弁護士法#沿革|弁護士団体]]の東京弁護士会が分裂し、[[帝国弁護士会]]などが発足した。
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こうした中、恐慌による経済的混乱を打開することができなかった[[ハーバート・フーヴァー]]に代わり、[[修正資本主義]]に基いた[[ニューディール政策]]を掲げて当選した[[民主党 (アメリカ合衆国)|民主党]]の[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズヴェルト]]大統領は、公約通り[[テネシー川流域開発公社]]を設立。[[フーヴァー・ダム]]建設などの公共投資増大による内需拡大政策や[[農業調整法]]、[[全国産業復興法]]を制定し、さらに諸外国における戦争に参戦をしないことを公約の一つとして掲げ、三選をはたした。
 
[[1935年]]には、戦争状態にある国に対する武器輸出を禁止する[[中立法]]が設置された([[孤立主義]])。ただし、[[1937年]]には[[日中戦争]]が勃発したことから、大統領により、イギリス船籍の船によるアメリカ製武器の中国への輸送が許可された。<ref>アメリカが不況から脱出したのは第二次世界大戦開始後である。{{要出典|date=2025年10月}}</ref>
 
この中立法は[[1939年]]に再び緩和され、[[1941年]]3月には[[レンドリース法]]が成立し軍事物資の提供が可能となった。8月には、[[アメリカ合衆国大統領]]の[[フランクリン・ルーズベルト]]と、[[イギリス首相]]の[[ウィンストン・チャーチル]]により、ナチスとの戦いとその後の平和的指針を示した[[大西洋憲章]]が調印され、9月にはルーズベルト大統領が「防衛を必要とする海域において」ドイツとイタリアの船を攻撃するよう命令し、10月には[[ルーベン・ジェームズ (駆逐艦)|駆逐艦ルーベン・ジェームス]]がナチス・ドイツに撃沈された。
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さらに第一次世界大戦でドイツが敗北し、[[ドイツ領ニューギニア|ドイツ領南洋諸島]]の宗主権が戦勝国の日本に移される際には、[[サモア]]や[[ニューギニア島|ニューギニア]]東北部などの[[赤道]]以南の諸島は例外とされオーストラリアやニュージーランドの支配下に入った。オーストラリアはイギリスの軍事力に依存しつつ、赤道を生命線に安全保障政策を構築していった。また仮想敵国の一つドイツがなくなったため、オーストラリアの安全保障は対日本政策が中心となった。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[ホルスト・ヴェッセルの歌]]
* [[上海租界]]
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
<!-- 出版年の順に並べ直しました -->
* <div id="teikoku"></div>[[帝国弁護士会]]『華府条約廃止通告に関する声明』、『正義』9月号、帝国弁護士会 1934年 [[:s:華府条約廃止通告に関する声明|Wikisource]].
* [[司法省 (日本)|司法省]]『ナチスの刑法(プロシヤ邦司法大臣の覚書)』、司法資料、1934年 [[:s:ナチスの刑法(プロシヤ邦司法大臣の覚書)|Wikisource]].
* 司法省『ナチスの法制及び立法綱要(刑法及び刑事訴訟法の部)』、司法資料、1936年 [[:s:ナチスの法制及び立法綱要(刑法及び刑事訴訟法の部)|Wikisource]].
* J.M.ロバーツ([[五百旗頭真]]訳)『世界の歴史9 第二次世界大戦と戦後の世界』創元社 2003年
* [[福田和也]]『第二次大戦とは何だったのか?』筑摩書房 2003年 ISBN 4-480-85773-7
* [[油井大三郎]]・[[古田元夫]] 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論社 1998年 ISBN 4-12-403428-8
* 軍事史学会編 『第二次世界大戦 <small>発生と拡大</small>』 錦正社 1990年{{Full citation needed|date=2025年10月}}
* 武田龍夫 『物語 北欧の歴史』 中公新書 1993年 ISBN 4-12-101131-7
* {{Cite book |和書 |author = ドナルド・キャメロン・ワット |translator = [[鈴木主税]] | title = 第二次世界大戦はこうして始まった. 上 |year = 1995 |publisher = 河出書房新社 |id= {{全国書誌番号|95066802}} |ref = {{SfnRef|ワット|1995}} }}
* [[萩原宜之]] 『ラーマンとマハティール』 岩波書店 1996年{{Full citation needed|date=2025年10月}}
* [[中西輝政]] 『大英帝国衰亡史』 PHP研究所 1997年 ISBN 4-569-55476-8
* 森田安一 『物語 スイスの歴史』 中公新書 2000年 ISBN 4-12-101546-0
* J.M.ロバーツ([[五百旗頭真]]訳)『世界の歴史9 第二次世界大戦と戦後の世界』創元社 2003年{{Full citation needed|date=2025年10月}}
* [[福田和也]]『第二次大戦とは何だったのか?』筑摩書房 2003年 ISBN 4-480-85773-7
* ウリ・ラーナン他(滝川義人訳) 『イスラエル現代史』明石書店 2004年 ISBN 4-7503-1862-0
* 堀口松城 『レバノンの歴史』 明石書店 2005年 ISBN 4-7503-2231-8
* 辛島昇編 『南アジア史』 山川出版社 2004年 ISBN 4-634-41370-1
* [[中西輝政]]堀口松城大英帝国衰亡レバノンの歴史』 PHP研究所明石書店 19972005年 ISBN 4-5697503-554762231-8
* {{Cite book |和書 |author = ウィリアム・L.シャイラー |authorlink=ウィリアム・L・シャイラー |translator = 松浦伶 | title = 第三帝国の興亡. 3 |year = 2008 |publisher = 東京創元社 |isbn= 978-4-488-00378-4 |ref = {{SfnRef|シャイラー|2008}} }}
* [[ハミルトン・フィッシュ]] 『ルーズベルトの開戦責任』 草思社文庫 2019年6月26日 {{ISBN2| 978-4794-22062-2}}