「小松原 (座間市)」の版間の差分
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* [[1944年]](昭和19年)月日不詳 - 小松原に初めて電灯が灯る{{efn|新田宿飛地新畑(現・相模が丘六丁目、辰街道沿いのマルマン工場がある所)に日本海軍の無線電信送信所が完成。高さ40Mの鉄塔3本立つ。[[1944年]]ごろ小松原の住民が当時の県議会議長兼相模原開発同盟会長「岩本信行」に陳情し、この海軍送信所から送電し小松原にはじめて電灯が灯いた<ref>出典元:『小松原開拓百年史』p39・p40、『座間の語り伝え 村制編1・村の起こり 』 p67・p68</ref>。}}。
* [[1945年]](昭和20年)5月10日 - 小松原地区~[[中央林間西|鶴間新開]]辺り空襲。鶴間新開は集落が全滅と化す<ref>『小松原開拓百年史』p42</ref>。
* [[1946年]](昭和21年)月日不詳 - 米軍の軍用道路として相武台新道工事着工{{efn|[[東京都区部|東京]][[丸の内]]の[[第一生命館]]を[[接収]]した[[GHQ|連合国軍最高司令官総司令部本部]]から[[キャンプ座間]]・[[相模原住宅地区|上鶴間米軍ハウス]]ほか[[進駐軍|米軍]]施設への軍用道路。『座間の語り伝え 村制編1村の起こり』p69。「米軍によるたいへんな工事であった。[[学校法人大和学園 (神奈川県)|大和学園]]の[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]を越えるには遮断機や警報機がない「第4種踏切」で昭和28年12月に山王原跨線橋が出来た。相武台の[[小田原線|小田急線]]を跨ぐところには元の古い農道に簡易な陸橋が着工前から架けてありそれを暫く供用し昭和28年10月【相武橋(そうぶばし)】(相武台跨線橋)として新設整備された。」※原文ママ「行政道路(座間街道)の工事」『大和市史研究 第9号 鶴間新町のルーツを探る —座談会—(岩崎房吉・小松一男 ・杉崎貴重・関水義治・高橋治作・高橋冨蔵・市史編さん事務局)…昭和58年3月発行』p22}}{{efn|『小松原開拓百年史』p21に「座間日産工場の前の道路は昭和21年に[[進駐軍]]が作った道路である。進駐軍にとっては[[厚木基地]]と並んで座間キャンプは重要な基地だったようだ。本国から着いた荷物を[[横須賀港]]から座間キャンプまで運搬するのに相模大野の谷口の交差点を廻らければならなかったので、[[国道16号
* [[1953年]](昭和28年)
** 10月 -【相武橋(そうぶばし)】(相武台跨線橋)完成{{efn|2025年9月17日、橋梁に刻印確認。}}。
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=== 日本郵便 ===
* 郵便番号 : 252-0002{{r|postal}}(集配局 : [[座間郵便局]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/zipcode/dl/bangobo/zip_bgb.pdf|format=PDF|title=郵便番号簿 2022年度版|publisher=日本郵便|language=日本語|accessdate=2023-07-17}}</ref>)。
== 参考文献 ==
* 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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