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後年、利次が書いた覚書によれば、大坂夏の陣直後に高台院が利次養子のことを[[徳川家康]]に願い出たが拒否されたという。その後、[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])になって、[[徳川秀忠]]・[[徳川家光|家光]]父子が上洛した際に高台院は利次を目通りさせて再度養子縁組を願い出たところ、秀忠の意向で許されることになった<ref name="福田"/>。翌[[寛永]]元年([[1624年]])、養子縁組の御礼のために[[江戸城]]の家光の元に参勤したが、高台院の病状悪化の知らせを聞き、急遽京都に戻ることが許された。同年9月に高台院が死去している<ref name="福田"/>。
高台院が死去した後、幕府により苗字を「木下」に改姓させられた<ref name="池田" />。秀吉正室高台院は公家として秀吉の羽柴家が残ることを願っていたが幕府により家格の継承が否定され木下家となった羽柴家は高台院の(化粧領・養老料)1万5000石の遺領を大幅に削られ、[[近江国]][[野洲郡]]・[[栗太郡]]の3000石と豊臣家の[[社稷]]を相続することのみが許され
[[貞享]]4年(1687年)に致仕して家督を長男の利値に譲り、元禄2年(1689年)に83歳で死去した<ref>{{Cite web |title=豊臣は滅んでいなかった?秀頼の死後も豊臣の姓を受け継いだ木下利次のエピソード(Japaaan) |url=https://news.line.me/detail/oa-japaaan/v6iske5qo9vg |website=LINE NEWS |access-date=2025-03-19 |language=ja}}</ref>。墓所は、四男・崇達が僧となった[[金地院]]にあり、「家門元領豊臣姓木下氏民部墓」と刻まれている。
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