「桂小南 (2代目)」の版間の差分
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当人の記述ですが、出典を追加して加筆修正。奉公を始めたのは「数え年十三歳」と記しており、早生まれである点とも符合していることから、1932年に修正。 |
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入門当初は金馬が[[東宝]]専属であったため[[寄席]]の定席には出られなかった。また師匠の出演する[[東宝名人会]]も若手の[[真打]]が前座を務めるような状況で、小南が出演できるものではなかった{{Sfn|小南半生記|1972|pp=388-389}}。このため、東宝が昼席に別に開いた「笑話会」の前座が[[初高座]]となった{{Sfn|小南半生記|1972|pp=388-389}}。[[太平洋戦争]]中は召集を受け、[[1943年]](昭和18年)の年末に除隊・復員となる{{Sfn|小南半生記|1972|pp=388-389}}{{Efn|部隊では金馬の弟子ということもあり、お座敷がかかって引っ張りだこの状態となったが、[[腸チフス]]のため死線をさまよったこともある{{Sfn|桂小南|1982|pp=129-134}}。}}。復員後には東宝名人会での[[満洲国|満州]]慰問にも参加し、以後終戦まで兵役には就かなかった{{Sfn|小南半生記|1972|pp=388-389}}。
戦後は東宝の寄席に出たが、金馬から「おまえは上方落語の方がいいから」という理由で[[桂小文治 (2代目)|2代目桂小文治]]の身内となる(自身の記述では1953年(昭和28年)){{Sfn|小南半生記|1972|p=389}}{{Sfn|落語のいき 2|pp=20-21}}。その時点で覚えていた「七、八十」の江戸噺をすべて捨てて上方落語を習得するとともに、[[落語芸術協会]]に加入した{{Sfn|小南半生記|1972|p=389
[[1958年]](昭和33年)9月、2代目桂小南を襲名して[[桂文治 (10代目)|10代目桂文治]]、[[春風亭柳昇|5代目春風亭柳昇]]、[[三笑亭夢楽]]、[[三遊亭小圓馬]]、[[春風亭柳好#4代目|4代目春風亭柳好]]とともに真打となった{{Sfn|古今東西落語家事典|1989|p=353|loc=現役落語家名鑑―東京}}{{Sfn|小南半生記|1972|p=391}}。当初は「[[三遊亭右女助|右女助]]」の名跡を継ぐべく、[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]との交渉に及んだが、逆に文楽に見込まれ、彼が持つもうひとつの名跡の「小南」を譲られることとなった{{Sfn|桂小南|1982|pp=161-162}}{{Efn|[[桂小南 (初代)|初代桂小南]]は文楽の師匠である。}}。
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