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== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]]) 、誕生。父親の名前は四郎三郎と伝わり、[[天正]]19年1([[1591年]])1月9日に喧嘩が原因で死去した。
 
[[豊臣秀長]](豊臣大納言家)に仕え、史料には秀長の[[大和国|大和]]入国以降に名が見られるようになる。[[羽田正親]]、小川下野守とともに秀長の三[[家老]]として内政を担当し、大和国内で5万石を領した。これは当時の秀長の家臣中で最も高禄であった。
 
[[天正]]13年([[1585年]])3月21日に鍬初めが行われた[[和歌山城]]の普請奉行を[[藤堂高虎]]・羽田正親とともに勤めた。[[春日大社]]の[[石垣]]補修などの普請奉行にも名が見られ、また秀長と領内の[[興福寺]]の[[取次 (豊臣政権)|取次]]的な役割を担っていた。天正15年([[1587年]])の[[豊臣氏]]による[[九州平定]]では裏方として在国で留守を預かった。
 
秀長領における内政は一庵と[[小堀正次]]の両名を頂点として運営されており、天正19年([[1591(1591]])には小堀と連名で[[広寺]]大仏殿の造営に2,500石を出している。秀長の死後は、その養嗣子で僅か13歳の[[豊臣秀保|秀保]]に引き続き仕えた。[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]で秀保が出陣した際は留守を預かり、しばしば[[都市|京]][[伏見区|伏見]]へ出張しており、[[文禄]]2年([[1593年]])閏9月23日には秀長の兄・[[豊臣秀吉]]の茶会に参加した。
 
文禄3年([[1594年]])4月、秀保が死去し豊臣大納言家は断絶した。その後に[[大和郡山市|郡山]]を拝領した[[増田長盛]]には仕えず、秀吉の直参となった。
 
[[慶長]]元年([[1596年]])の[[慶長伏見地震]]で圧死した。
 
[[郡山城 (大和国)|郡山城]]本丸の北東属する「常盤曲輪」は、一庵がここに屋敷を与えられたので、ことから本丸法印曲輪」といわれていたが、[[江戸時代]]に[[柳沢氏]]が藩主になった時に改称された。梅林門も一庵丸門と称したが、改名された。
 
== 脚注 ==