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←新しいページ: 「'''林 退蔵'''(はやし たいぞう、生没年不詳)は、明治時代初期の日本の官僚・教育者。和歌山県出身。フランス語教育の先駆者として開成所・大学南校などで教鞭をとり、後年は大阪や和歌山において私塾教育に尽力した。 == 概要 == 和歌山県の平民の出身。父は林良岱(明治8年(1875年)4月没、谷中霊…」 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
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'''林 退蔵'''(はやし たいぞう、[[生没年不詳]])は、[[明治
== 概要 ==▼
[[明治]]3年(1870年)10月、[[学制改革]]により大阪洋学校と[[大阪開成所]]が統合された際、大阪開成所のフランス語教官に任ぜられた {{sfn| 創元社|1978 |p=73}}。明治5年(1872年)ごろの在任当時、英語教師は小泉信吉、フランス語教師は林退蔵であったと記録されている{{sfn|創元社|1978|p=73}}。▼
[[明治]]5年10月13日、[[文部省]]8等出仕となり、翌6年8月10日に[[陸軍省]]7等出仕に転じ、第一局第六課分課に勤務した{{sfn|前嶋信彦|1991|p=236}}。▼
和歌山県の[[平民]]の出身。父は林良岱([[1875年]]([[明治]]8年)4月没、[[谷中霊園]]に葬られる)。
その後、[[長野師範学校]]仏学文部大助教を経て、[[大学南校]](のちの[[東京大学]])では助教師として仏語および歴史学を担当した。南校時代には[[加藤弘之]]のもとで、[[箕作麟祥]]らと共に仏語教育に従事したと伝えられる{{sfn|三修社|1979|p=108}}。▼
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退蔵の門下からは[[加太邦憲]]などが出ており、彼は退蔵の講義で[[イギリス史]]や[[フランス史]]を学んだという{{sfn|三修社|1979|p=108}}。 ▼
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▲その後、[[長野師範学校]]仏学文部大助教を経て、[[大学南校]](のちの[[東京大学]])では助教師として仏語および歴史学を担当した。南校時代には[[加藤弘之]]のもとで、[[箕作麟祥]]らと共に仏語教育に従事したと伝えられる{{sfn|
林は若者の教育にも理解があり、教育者の[[山本鶴太郎]]が上京した際、下谷黒門町の自宅に寄宿させ、その才能を認めて[[千葉師範学校]]への入学を勧め、学資一切を援助した。鶴太郎はのちに千葉県銚子市の教育界において長年校長を務め、地域教育の基礎を築いた
▲林は若者の教育にも理解があり、教育者[[山本鶴太郎]]が上京した際、下谷黒門町の自宅に寄宿させ、その才能を認めて[[千葉師範学校]]への入学を勧め、学資一切を援助した。鶴太郎はのちに千葉県銚子市の教育界において長年校長を務め、地域教育の基礎を築いた {{sfn| 千葉県教育会館維持財団文化事業部 | 1989|p=355}}。
== 私塾活動 ==
病により当時就いていた東京[[控訴院]][[判事]]の職を辞したのち、故郷の和歌山に帰郷し、自宅でフランス語を教授した{{sfn|武田葛城|1943|p=17}}。当時、[[板垣退助]]が[[自由民権運動]]を盛んに展開していた時代であり、退蔵もその思想に共鳴して各地の政談演説会に出席したとされる{{sfn|武田葛城|1943|p=17}}。
また、和歌山日々新聞主幹[[下村房次郎]]や[[陸奥宗光]]の幕僚であった[[児玉仲児]]らと親交を結び、彼らの推挙により「明道館」という塾を開設。退蔵が館長となり、下村・児玉を講師として英・仏・漢学を教授した{{sfn|武田葛城|1943|p=17}}。温厚で誠実な人格により、多くの門人に慕われたという
▲また、和歌山日々新聞主幹[[下村房次郎]]や[[陸奥宗光]]の幕僚であった[[児玉仲児]]らと親交を結び、彼らの推挙により「明道館」という塾を開設。退蔵が館長となり、下村・児玉を講師として英・仏・漢学を教授した。温厚で誠実な人格により、多くの門人に慕われたという {{sfn| 武田明| 1943|p=17}}。
== 大阪英仏学校計画 ==
[[
== 参考文献 ==▼
== 脚注 ==
{{Reflist}}
▲== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=武田葛城(明)|title=七顛八倒記|date=1943-09-01|publisher=武田明|id={{NDLDC|1108721|format=NDLJP}}|ref={{SfnRef|武田葛城|1943}}}}
* {{Cite book|和書|author=伴忠康|title=適塾をめぐる人々 蘭学の流れ|publisher=[[創元社]]|date=1978-02-20|id={{NDLDC|12644396|format=NDLJP}}|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author1=富田仁|author2=西堀昭|title=日本とフランス 出会いと交流|date=1979-10-01|publisher=[[三修社]]|id={{NDLDC|12576667|format=NDLJP}}|ref={{SfnRef|富田・西|1979}}}}
* {{Cite book|和書|editor=「千葉県の教育に灯をかかげた人々」編集委員会|title=千葉県の教育に灯をかかげた人々|volume=1|publisher=千葉県教育会館維持財団文化事業部|date=1989-03-01|id={{NDLDC|13145915|format=NDLJP}}|ref={{SfnRef|千葉県教育会館維持財団文化事業部|1989}}}}
* {{Cite book|和書|author=霞信彦(前嶋信彦)|title=明治初期刑事法の基礎的研究|series=慶應義塾大学法学研究会叢書|volume=50|publisher=[[慶應義塾大学]]法学研究会|date=1990-10-15|id={{NDLDC|3059335|format=NDLJP}}|ref={{SfnRef|霞信彦|1990}}}}
* {{Cite journal|和書|title=教育週報|issue=40|publisher=教育週報社|date=1890-01-18|id={{NDLDC|1537080|format=NDLJP}}|ref={{SfnRef|教育週報40|1890}}}}
== 外部リンク ==
{{DEFAULTSORT:はやし たいそう}}
[[Category:生没年不詳]]
[[Category:19世紀日本の人物]]
[[Category:紀伊国の人物]]
[[Category:和歌山県出身の人物]]
[[Category:東京大学の教員]]
[[Category:日本の裁判官]]
[[Category:日本の教育者]]
[[Category:和歌山県の教育]]
[[Category:フランス語教育]]
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