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'''山崎 家治'''('''やまざき いえはる'''、[[文禄]]3年([[1594年]]) - [[慶安]]元年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]([[1648年]][[5月9日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。父は[[山崎家盛]]。祖父は[[山崎片家]]である。官位は従五位下、甲斐守。妻は[[木下勝俊]](ねねの実家)の娘、後妻には[[池田長吉]]([[池田輝政]]の弟)の養女([[池田長]]の娘)。子に[[山崎俊家|俊家]]、[[山崎豊治|豊治]]、[[山崎弘家|弘家]]、[[山崎勝政|勝政]]
 
秀吉の朝鮮出兵において、父家盛が対馬国で任に当たっていたときに生まれる。[[慶長]]19年([[1614年]]10)10月、父が死去したため、その後を継いだ。父の正室([[池田輝政]]の姉・天球院)の子ではなく側室の子であるものの、家盛には他に息子に恵まれなかったため、側室の子ながらして後を継ぐことになったという。同年末の[[大坂の役|大坂冬の陣]]では徳川方に与し、中之島に陣を布いた。翌年の大坂夏の陣では[[池田利隆]]隊に属して戦い、首級を6個挙げるという活躍をした。
 
[[元和]]3年([[1617年]]、大坂両陣の戦功により[[因幡国]][[若桜藩|若桜]]2万3千石から[[備中国]][[成羽藩|成羽]]3万2千石に加増転封。そして同地では、新田開発などに尽力したという。また大坂城築城工事では才能を遺憾なく発揮し、本丸部分の工事に携わっている。なお大坂城築城工事で出た廃石を、中之島の基礎として再利用している。そのため中之島には、山崎家の大坂屋敷が存在していたという。
 
家治は政治能力に優れているとともに築城の名手とも言われ、幕府(当時の老中・[[松平信綱]])から信任を得て、[[島原の乱]]後の[[寛永]]16年([[1639年]]、[[肥後国]][[富岡藩|天草]](富岡藩)4万3千石に加増転封された。しかしこのとき、乱後の混乱などで天草は荒廃していて、領内の2~3割が荒れ地であったという。家治は天草において、富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発などに着手し功績をあげる。その結果として寛永18年([[1641年]]、[[讃岐国]][[丸亀藩|丸亀]]5万3000石に加増移封された。[[丸亀城]]はこの頃廃城となっていたが、家治は丸亀城を再築城し、さらに城下町も整備している。ただし丸亀城は凝った造りにしようとしたため、全面完成をするのを見届けないまま、家治はこの世を去ることになった(なお丸亀城の再築城工事が全面完成したのは、京極氏のときである)
 
1648慶安元3(1648年)3月17日、55歳で死去。法号:正渓遊覚桂岩院。墓所:[[丸亀市]]の[[寿覚院]]。または京都市北区紫野の大徳寺瑞光院。
 
 
{{先代次代|[[若桜藩|山崎氏(若桜藩2代)藩主]]|1614~1614 - 1617|[[山崎家盛]]|[[池田清定]]}}
{{先代次代|[[成羽藩|山崎氏(成羽藩)藩主]]|1617~1617 - 1638|-|[[水谷勝隆]]}}
{{先代次代|[[富岡藩|山崎氏(富岡藩)藩主]]|1638~1638 - 1641|-|[[戸田忠昌]]}}
{{先代次代|[[丸亀藩|山崎氏(丸亀藩初代)藩主]]|1641~1641 - 1648|[[生駒高俊]]|[[山崎俊家]]}}
 
[[Category:近江山崎氏|いえはる]]
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[[Category:江戸の大名|やまさきいえはる]]
[[Category:外様大名|やまさきいえはる]]
{{[[Category:1594年没年|やまさき いえはる|1594年|1648年}}]]
[[Category:1648年没|やまさき いえはる]]