「ワールドトレードセンター (ニューヨーク)」の版間の差分
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{{基礎情報 超高層ビル|
ビルディング名称 = ワールドトレードセンター<br />ツインタワー<small><ref><small>正式名称は「One World Trade Center (1WTC)」と「Two World Trade Center (2WTC)」。なお1WTCのことをノースタワー、2WTCのことをサウスタワーと呼んだのは設計段階での仮称が建築界の間で通称化したもので、実際にはワールドトレードセンターにそうした表示は一切なかった。</small></ref></small>|
画像 = [[Image:World Trade Center Viewed From Ground New York City 1999.jpg|200px|center|WTC]] |
建設期間 = [[1966年]] - [[1973年]]|
使用目的 = オフィス<small><ref><small>ただし1WTCの108–110階にはレストランと宴会場、2WTC110階には展望台がはいっていた。</small></ref></small>|
所在地 = [[アメリカ合衆国]]、[[ニューヨーク]]|
屋上 = 417m |
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設計にはコンペの結果日系アメリカ人[[建築家]]の[[ミノル・ヤマサキ]]の案が選ばれ、敷地の大部分を低層ビルや公共の広場(プラザ)とし、隅に二棟の直方体 (63.4m × 63.4m × 415m) の[[超高層ビル]]を建てるという、ワールドトレードセンター・コンプレックス計画が[[1964年]]に発表された。
この案は、より多いオフィススペースを必要としていた施工主を満足させるものだった。ビルの有効面積を増やし賃貸収入を上げるため、フロア内には一本の柱もない大空間を可能とさせる、ヤマサキの[[チューブ構造]]が功を奏した。ビルの中央にエレベーターやライフラインを集中させ、それらを多くの支柱で囲み、さらに[[カーテンウォール|外壁]]全体に鉄骨の支柱を配して重さを支える、いわば鳥かごの中に鳥かごがあるような構造であった。これら外壁支柱はそれぞれ地下から立ち上がり、4階付近で三本に別れ、そのまま110階まで達するもので、その結果全く同じ床面積が1階から最上階まで続くという非常に効率的なものだった。またニューヨーク港に面したローワー・マンハッタンは風が強く、超高層ビルへの影響が懸念されたが、チューブ構造の柔軟性はタワーの中心部(55階付近)を最大振幅させるため、暴風時でも最上階付近ではほとんど揺れを感じないという優れた設計だった<small><ref><small>揺れを感じた中心部にはWTCを管理運営する[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社|港湾公社]]やニューヨーク・ニュージャージー両州の知事オフィスなど、非テナント機関が入居していた。最大振幅は各タワーとも55階付近で、風邪の強い日には実際に窓の外のもう一つのターワーが揺れるのを目視することができた。このためこの階で過ごす一人当たりの時間を極力少なくするよう、1WTCの55階はWTCA (世界貿易センター連合) が運営するビジネススクールの講義室、2WTCの55階は港湾公社の会議室などが入っていた。それでも荒天の日には「乗り物酔い」を訴えるスクール受講生が少なくなく、稀に授業をキャンセルする日もあった。</small></ref></small>。
さらに[[エレベーター]]の効率的な運行のため、44階と78階に乗換階「スカイロビー」を設け、高速エレベーターをスカイロビーに直行させ、ここからさらに各階行のエレベーターに乗り換えさせるという方式にした。これは限られたエレベーターシャフトを超高層ビルで最大限有効に利用する画期的方法で、このような運行システムを採用したのはツインタワーが世界初だった。各タワーには低層階専用、中層階専用、高層階専用、スカイロビー(44/78階)直行、最上階(展望台/レストラン)直行、あわせて104基のエレベーターが設けられた。
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こうして[[1972年]]に1WTC(北棟)が、[[1973年]]に2WTC(南棟)が完成し、[[1973年]][[4月4日]]にワールドトレードセンター落成式典が挙行された。高さ世界一の座は[[1974年]]に完成した[[シカゴ]]の[[シアーズ・タワー]]にすぐに奪われたものの、展望デッキや展望レストランが[[1975年]]以降完成してニューヨークの新しい観光名所となり、以後多くの映画やテレビドラマにツインタワーが登場するようになった。オフィス、ホテル、合衆国税関、先物取引場など六棟からなるワールドトレードセンター・コンプレックス全体は[[1977年]]に完成した(また[[1987年]]には隣接する敷地に7WTCが追加オープンしている)。
ところがいざオープンしてみると、当初想定していた貿易会社などの入居は少なく、国際貿易の拠点としての計画は当てが外れた。完成時のキーテナントは港湾公社ほか、市や州、連邦などの機関が多く、あたかも官庁舎のような状態であった。活況を呈してくるのは[[1980年代]]以降、隣接する[[ウォール街]]が世界の金融の中心として活況に満ち、[[モルガン・スタンレー]]やソロモン・ブラザーズの本社を始め、
WTCは、公共建築や大型ビルを建てる際はその建設費の1%を[[パブリック・アート]]に使うという、現在では全米各地に広まっている条例を適用した先駆的なビル群だった。エントランスのロビーには[[ルイーズ・ネーベルソン]]、[[ジョアン・ミロ]]、[[ル・コルビュジエ]]らの大きな作品が、プラザの中心にはフリッツ・ケーニッヒ (Fritz Koenig) の「The Sphere」が、またその周辺には[[流政之]]の「雲の砦」、ジェームズ・ロザッティ (James Rosati) の「Ideogram」などが置かれていた。またWTC7建設後には[[アレクサンダー・カルダー]]の「スタビル」などが設置された。ビルの各[[テナント]]もおのおの美術[[コレクション]]を所有しており、たとえば1WTCの上層階にあって社員のほとんどが犠牲となった金融会社は[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]の彫刻のコレクションで知られていた。このようにWTC全体には美術館ができるほどの数と質の美術品があったが、アメリカ同時多発テロ事件によってそのすべてが灰燼に帰した。プラザに毅然と君臨していたケーニッヒの「The Sphere」はずたずたの残骸になって発見された。再度組み立てられたのち、バッテリーパークに移設されて、現在では「テロの仮祈念碑」となっている。
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ワールドトレードセンターは2度[[テロ]]の標的になった。[[1993年]][[2月26日]]の[[世界貿易センター爆破事件|爆破事件]]では、地下駐車場で爆破物を満載したバンが爆発、6人の犠牲者を出した。二度目は[[2001年]][[9月11日]]のイスラム系国際[[テロ]]組織[[アルカーイダ|アルカイダ]]によるハイジャック機を利用した[[アメリカ同時多発テロ事件|9/11テロ]]で、ツインタワーが崩壊、2749人もの犠牲者を出す大惨事となった。
WTC建造物への被害は以下のとおり:
*1WTC:ノースタワー (110階) → 94-98階に航空機直撃により完全崩壊
*2WTC:サウスタワー (110階) → 78-84階に航空機直撃により完全崩壊
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*5WTC:オフィスビル (9階)) → 9階から3階までタワー崩壊落下物が貫通しほぼ全壊
*6WTC:合衆国関税局/先物取引場 (7階) → タワー崩壊落下物によりほぼ全壊
*7WTC:オフィスビル (47階) → テロ発生8時間後に完全崩壊(タワー崩壊の衝撃と火災の熱が基礎部分の構造強度を劣化させたことが原因とされる)
==再建==
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9/11後膨大な床面積のオフィス物件を失い、市内からの企業流出を恐れるニューヨーク市などはローワー・マンハッタン再開発会社を設立、ここにWTCを再建する計画がスタートした。しかし再開発にあたっては遺族感情もあるため、誰もが慎重にならざるを得なかった。当初案はオフィス再建一辺倒だったため遺族の反発を買い、世界の建築家を招いた[[建築設計競技|コンペ]]を経て、[[ダニエル・リベスキンド]]の「メモリー・ファウンデーション」と題する案が1等となり採用された。ポーランド生まれドイツ在住のリベスキンドはベルリン・ユダヤ博物館に代表される祈念モニュメントの設計に定評があり、今回も尖塔までの高さ1776フィート(541m、アメリカ独立の[[1776年]]にちなむ、ただし建物部分は70階建)の自由の女神を模した[[フリーダム・タワー (ニューヨーク)|フリーダム・タワー]]がそのデザインの中核を占めていた。またツインタワーのあった場所は慰霊の場とし、その周囲を[[ストーンヘンジ]]のように囲む高層ビル群は、毎年9月11日の朝の旅客機衝突時刻からビル崩壊時刻までの間、タワー跡地に影を落とすように配置されていた。
しかし港湾公社は9/11テロ直前の[[2001年]]7月、ニューヨークの不動産開発業者ラリー・シルバースタインにWTCを長期リースする契約を交わしており、その結果シルバースタインが事実上の再建施工主となったため、事態は複雑な様相を呈するに至った。商業価値を優先するシルバースタインはモニュメントとしての性格が強いリベスキンド案を嫌い、[[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル|SOM]]のデイヴィッド・チャイルズを参加させて設計に大幅な変更を加えたため、リベスキンドとの間で訴訟沙汰となった<small><ref><small>シルバースタインはテロ被害による[[保険]]金支払額をめぐっても、テロを1回と数えるか、飛行機の衝突回数から2回と数えるかで訴訟を起こし勝訴している。</small></ref></small>。 両者は和解し、新たにリベスキンド・チャイルズ折衷案が公表されたものの、今度は警察当局や米国本土安全保障省などから保安上の設計変更が求められ、さらに港湾公社やこれを管轄するニューヨーク・ニュージャージー両州議会などの意向も加わり、設計は変更に変更を重ねることになった<small><ref><small>最新のフリーダム・タワーのデザインに自由の女神のイメージは全くない。</small></ref></small>。
[[2002年]]半ばまでに残骸は全て撤去され、以後、地下鉄やパストレインの再建が始まった。WTC再建の第一歩として、新7WTCが2006年に落成、WTC全体の再建事業完成は[[2010年代]]になると見込まれている。なお再建後の名称は従来どおり「ワールドトレードセンター」となる予定である。
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