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 '''不受不施義'''(ふじゅふせぎ)とは、[[日蓮宗]]における思想の1つでの不受とは[[法華経]]の信者以外からは施しを受けず、不施とは法華経以外の教えを広める僧侶には施しをしないということ。
 日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを平気で受けるなど、次第に変質していった。このような状況の中で、室町六代家[[足利義教]]の頃「鍋かむりの[[日親]]」とあだ名された[[日親]]が不受不施を主張した。
 
 日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを平気で受けるなど、次第に変質していった。このような状況の中で、室町六代家[[足利義教]]の頃「鍋かむりの[[日親]]」とあだ名された[[日親]]が不受不施を主張した。
 日蓮宗は安土桃山時代に豊臣秀吉が命じた[[千僧供養]]に出仕するかどうかで、受不施派と[[日奥]]らの不受不施派に分裂し、その後不受不施派は江戸時代を通じて禁圧を受けた。そのような状況の中でも派内で内紛が生じ、明治時代になって[[日蓮宗不受不施派]]として再興される日堯らの導師派の系統と、同じく明治時代に[[不受不施日蓮講門宗]]となる[[日講]]らの不導師派(講門派)の系統に分裂、さらに幾つかの派に分派した。
 
 日蓮宗は安土桃山時代に豊臣秀吉が命じた[[千僧供養]]に出仕するかどうかで、受不施派と[[日奥]]らの不受不施派に分裂し、その後不受不施派は[[キリスト教]]と同じく「[[邪宗門]]」と位置付けられて江戸時代を通じて禁圧を受けた。そのような状況の中でも派内で内紛が生じ、明治時代になって[[日蓮宗不受不施派]]として再興される日堯らの導師派の系統と、同じく明治時代に[[不受不施日蓮講門宗]]となる[[日講]]らの不導師派(講門派)の系統に分裂、さらに幾つかの派に分派した。
 
[[Category:法華系仏教|ふしゆふせき]]