「ものみの塔聖書冊子協会」の版間の差分

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エホバの証人そのものは法人格を持たない任意団体であるが、一般的に「宗教法人ものみの塔聖書冊子協会」がエホバの証人を差す通称として使用されている。
 
== 起源と歴史 ==
[[Image:Russell Charles Taze 1911 .jpg|150px|right|thumb|[[チャールズ・テイズ・ラッセル]]]]
[[Image:Rutherford.jpg|150px|right|thumb|[[ジョセフ・フランクリン・ラザフォード]]]]
[[1879年]]に[[チャールズ・テイズ・ラッセル]](Charles Taze Russell)によって出版された 「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者(Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence)」が始まり。誌上でキリスト教の伝統的解釈、三位一体を否定する独自の聖書・キリスト教解釈を繰り広げ、「聖書研究」等の著書も相次いで出版し、聖書研究会を開催するに至る。聖書研究会の統率ならびに刊行物出版のための[[法人]]として「ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会」を[[1884年]]に設立、初代会長に就任する。
 
ラッセルの死後、[[ジョセフ・フランクリン・ラザフォード]]がものみの塔聖書冊子協会の2代会長に就任し、内部分裂や幹部の煽動罪による[[投獄]]などを経て、組織の再編成をした後、[[1931年]]に従来の「聖書研究者(Bible Students)」という名称を止め「エホバの証人 (Jehovah's Witnesses) 」(イザヤ43章10節に由来)という名称を採択した。布教活動、兵役の拒否や既成の教会への批判的立場、宇宙主権の論理などの教義はこの時代からのものである。
 
[[1942年]]ラザフォードの死後ネイサン・ホーマー・ノアがものみの塔聖書冊子協会の3代会長に就任する。輸血禁止、十字架、宗教的宝飾類禁止などの教義が新たに加わる。また「ものみの塔ギレアデ聖書学校」と称する[[宣教師]]を養成する学校を設立し、世界中に宣教師を送り込むことにより、信者数が増え組織が拡大する。しかし、「[[1975年]]が[[アダム]]誕生から数えて人類生存の七千年期にあたり、ハルマゲドンが近いことを表す」という情報を「1975年がハルマゲドンの年だ」と解釈した人たちの多くが、その予測が外れたため、失意して教団を離れた。
 
[[1977年]]、ノアの死去に伴いフレデリック・ウイリアム・フランズがものみの塔聖書冊子協会の4代会長に就任。組織内の[[粛正]]に努めた。このとき、教義や教団組織の行動に対して批判的な者は、背教者([[反キリスト]])であるとして排斥(破門)処分を受けた。また、彼の[[甥]]で元統治体メンバーの[[レイモンド・フランズ]](『良心の危機』の著者)さえも、排斥された。<ref>[http://www.jwic.com/franzbio.htm JWIC・レイモンド・フランズ-エホバの証人最高指導者の人生の軌跡とその信仰]</ref>
*日本においても[[1985年]]に[[北海道]]の[[札幌市]]広島会衆で多数の排斥者がでて、成員も教団の考え方に疑問を抱き多数に離脱していった。<ref>[http://www.stopover.org/lib/Kanazawa/Jikenbo/index.html STOPOVERメーリングリスト・金沢文庫-北海道・広島会衆事件簿]</ref>
 
[[画像:JWStats.png|right|thumb|350px|平均伝道者数, 1945年–2005年]]
 
[[1992年]]フランズの死去に伴いミルトン・ジョージ・ヘンシェルが5代会長に就任する。前会長の時代とは異なり、[[高等教育]]、学校での[[スポーツ]]、個人的趣味の分野においての考え方が緩和され、各個人の意思を尊重する方針になった。また「終わりの日」の始まった1914年から文字通り一「世代」のうちにハルマゲドンが来るとの教義に変更が加えられた。
 
[[2003年]]にヘンシェルが死去後、統治体の成員でないドン・A・アダムズが会長に就任し、今に至る。
 
主な財源は信者や、文書を受け取った人の自発的な[[寄付]]による(寄付の強請や、商品などの販売が行われることはない)。信徒数は650万人ほどである。
 
== 日本での活動 ==
日本では、[[1926年]]頃に活動を開始した。'''[[ものみの塔聖書冊子協会|灯台社]]'''として[[明石順三]]を中心に活動するが[[1939年]][[6月21日]]に一斉検挙、結社禁止に追い込まれ事実上壊滅した。その後明石は[[1947年]]に戦時中の教団の行動を批判<ref>[http://www.d2.dion.ne.jp/~majinbuu/money/money.htm ものみの塔日本支部の基本財産]</ref>して脱会。[[1949年]]に米国本部から宣教者が多数送り込まれる形で再組織化が進み、バプテスマを受けた国内信者数は21万人超にまで成長した(キリスト教系の団体ではカトリックに次いで第2位と公称)。
 
* フランスにおいては、同国の法律の関係で問題点が生じやすいため、国の監視対象となっている。
** ウール県において労働法違反で調査された。
** 医療行為の制限については信者個人が自由意志でしている場合は合法だが、教団による強制が見られた場合強制解散の対象として取り扱われている。
** 1995年11月から1999年1月にわたって行なわれた税務調査の結果、宗教団体『エホバの証人』は強制課税手続きならびに1996年および1997年の申告税額に関して22,920,382ユーロの修正に加えて罰金および延滞金利として22,418,464ユーロの更正通知を受けた。告発対象となった会計処理は、同団体が信者たちから[[寄付]]として集めたものであった。フランスでは宗教団体への課税は免除されているので、教団側はこの措置が不当であるとして、2005年に[[欧州人権裁判所]]に提訴した。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 外部リンク ==