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1960年代半ば、日本では本格的な[[モータリゼーション]]時代を迎え、各自動車メーカーは車種の充実をはじめた。カローラは、エントリーモデルであり、国民車構想の流れを汲む[[トヨタ・パブリカ|パブリカ]]と、量販車種であり、排気量のアップや車体の大型化により車格が上昇した[[トヨタ・コロナ|コロナ]]の中間に位置する量販車種として、[[1962年]]ごろに初めて企画された。トヨタは、パブリカが実用的に過ぎたため人気を得られなかったと分析し、実用以上の「魅力」を付加することを目標とし、開発理念として「[[トヨタ自動車#開発思想(80点主義)|80点主義]]」を掲げた。エンジンは、パブリカの空冷2気筒700cc(のちに800cc)に対して、先行して開発されていた水冷4気筒[[OHV]]式の1000ccエンジンを搭載することとした。
 
車両重量その他の計算から、時速100kmで巡航するために必要な最高出力を60psとし、その出力を余裕を持って発揮するという名目から、また、後述する[[日産・サニー|サニー]]に対抗するため、発売前の最終段階にはエンジン排気量が1100cc(実際は1077cc)に決定された。そのほか、[[フロアシフト]]による4段トランスミッション、マクファーソン・ストラット式の前輪[[独立懸架式|独立懸架]]などの新機構が取り入れられた。また、トヨタはカローラ生産のために新工場(高岡工場)を建設し、年間2万台の生産と販売を目標とした。
 
====ライバルの先行登場====
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====発売前キャンペーン====
サニー発売に遅れること5ヶ月、[[1966年]][[9月]]「カローラ」という車名と、セミファストバックスタイルのボディの一部のみを見せるティザー・キャンペーンが行われた。このときから用いられた'''「プラス100ccの余裕」'''というキャッチコピーは、新開発のK型水冷4気筒エンジンの排気量(1100cc)を表現したものであり、同時に「'''日本のハイ・コンパクトカー'''」を称して、パブリカや、あるいは同クラスの他社製品より上質であることを訴えた。初代カローラ(E10系)は翌10月、[[東京モーターショー]]で発表される。同年[[10月28日]](金曜日)には「お茶の間発表会」と銘打ち、当時トヨタが提供していた[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]のゴールデンタイム(21時からの1時間)に特別番組「カローラビッグバラエティショウ」を放送、[[梓みちよ]]・[[北島三郎]]・[[坂本九]]など、当時の流行歌手が出演した。
 
このような発売前の大々的なキャンペーンを経て、カローラは翌11月に発売された。各グレードの販売価格は、'''スタンダード'''432,000円、'''スペシャル'''472,000円、'''デラックス'''495,000円であった。「100ccの余裕」は、余裕を謳う反面、税制上は不利であったが、販売台数はサニーを上回った。
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====排気ガス規制とマイナーチェンジ====
 昭和48年,50年,51年,53年と排気ガス規制の間に販売された3代目は、エンジンの改良の度に変更が繰り返され、その過程で形式が30系から50系、55系と増えていった。変更の履歴概要は次の通り。<BR>
::[[1973年]]([[昭和48年]])S48 カローラ30登場。
::::: 1200:KE-30(KE30(セダン)、35(ハードトップ)/1400:TE30,35/1600:TE31/37
::[[1975年]]([[昭和50年]]) モーターショーでリフトバックシリーズ発表。スプリンタークーペのボデーにリヤゲートを追加したもの。
::::: 1600シリーズ 12T型エンジン(TTC-V 副燃焼室方式)で昭和50年排ガス規制適合。A-TE31(セダン)、TE35(ハードトップ)
::::: 1200シリーズ  3K-U型エンジン(TTC-C 触媒方式)で昭和51年排ガス規制適合。B-KE50
::::: 2T-GR型エンジン廃止に伴い、レビンシリーズ生産中止。
::::: 同時にデザイン小変更。ボンネット熱抜グリルが樹脂製からボンネットプレス一体型に。ドアロックが丸から四角に。