「井口城」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
9行目:
== 歴史 ==
詳しい築城年代は不明だが、[[鎌倉時代]]後期に付近を支配していた[[豪族]]井口氏が拠っていたと云い、恐らくこの時期に築かれたものと思われる。井口氏は『越登賀三州志』によると[[藤原利仁]]の後裔である[[斎藤氏]]の流れを汲み、中世に越中国[[礪波郡]]で勢力を誇った石黒氏を始め野尻氏や宮崎氏等は井口氏の流れを汲むとしている。また『富樫家譜』には藤原利仁の三男光義を井口氏の始まりとしているが、『尊卑分脈』にはその名が無く、疑問が残る。また、古代の在地首長で越中国司も務めた利波臣の後裔とする説もある。この辺りは石黒氏の系図問題が絡むなどして難解であり、詳述を避ける。
[[南北朝時代 (日本)|南北朝期]]初頭、井口氏は越中国[[守護]][[名越時有]]の子[[名越時兼]]と共に[[中先代の乱]]に参加したり、[[足利尊氏]]の御教書を得た越中国守護[[普門年清]]に従って挙兵して越中国[[国司]][[中院貞清]]と戦い[[石動山]]にて敗死させたりと活発に動いている。[[正平 (日本)|正平]]年間([[1346年]]~[[1370年]])になると[[南朝 (日本)|南朝]]方の有力者だった越中国守護[[桃井直常]]が越中国[[庄ノ城]]を拠点とすると、'''井口城'''は庄ノ城の支城として機能した。井口氏が野尻氏らと共に直常の配下として各地を転戦している様子が『[[太平記]]』に見える。[[応安]]2年([[1369年]])[[9月24日]]、'''井口城'''は[[北朝 (日本)|北朝]]方の[[吉見氏]]に攻められて越中国[[千代ヶ様城]]と共に落城した。桃井勢は越中国[[松倉城]]へと逃れた。井口氏は大家庄(現富山県下新川郡朝日町大家庄)へと拠点を変えるのだが、その時期が'''井口城'''が落城した時なのか、それ以前なのか、はたまた[[南北朝時代 (日本)|南北朝期]]より前に既に移っていたのかは判然としない。なお、'''井口城'''は[[室町時代]]まで使用されていた形跡があるという。
| |||