「フリードリヒ・エンゲルス」の版間の差分
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エンゲルスはマルクスを救うために、父親のいるマンチェスターに働きに戻る。
1883年、マルクスの死後、エンゲルスはマルクスの遺稿の編集、その他既存著作の諸言語への翻訳に尽力した。なかでもマルクスの主著『資本論』の第2巻及び第3巻の刊行は、エンゲルスの知的能力と実務能力の高さなしにはなしえなかった業績である。
しかも、彼は単なる『資本論』その他の編集者ではなかった。編集の最中に現れるマルクスの理論の剽窃、中傷、誤解に対して、果敢に論陣を張り、その理論水準は当代随一であった。作業で書斎に閉じ込められているときですら、その精神は常に外界に開かれており、年老いてすら、その精神は若さを保ち、当時新たなステージに移行しつつあった資本主義の動向を分析し続けた。そればかりか、一方で、資本主義の最新の諸現象を分析しながら、他方で、労働運動と社会の最新の発展を踏まえて、それまでの自分とマルクスの活動を振り返り、また、未来社会への道筋の新しい見地を提示した。マルクス亡き後のエンゲルスは、単にマルクスの遺言執行人であったのではない。その思考と思想は、最新の時代情勢の刺激とその人間的な円熟とによって、全く新たな境地に踏み入れていった。エンゲルスの最晩年の到達は、『家族、私有財産、及び国家の起源』『フォイエルバッハ論』『フランスにおける内乱』1891年版への序文、「エルフルト綱領草案批判」ほか多くの著述、そして、マルクスの死後、多くの人物に対して「教師」として語られた書簡の中のエンゲルスの箴言の中にまざまざと、また生き生きと表現されている。
当代随一の社会主義運動の「教師」として、諸国で拡大する労働運動を指導するという激務と平行して、亡き友に対する古今稀に見る忠節を以ってマルクスの思想の理論的基礎を文献として後世に残したエンゲルスは、『資本論』第3巻をようやく仕上げて約1年のちに、その死の間際まで精神的な若々しさと明朗なユーモアを持ち続け、諸国の運動家を指導勉励ながら、[[1895年]][[8月5日]]、ロンドンで死去した。その遺骨は、自らが祀り上げられることを決して好まなかったエンゲルスの遺言により、イギリス南部のドーバー海峡に面する風光明媚な彼のお気に入りの地イーストボーンの沖合いに散骨された。
== 邦訳 ==
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