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== 歴史 ==
* 茨城方言は、東国方言に属する関東方言の一種であることは間違いないが、古事記や日本書記には大和時代に戦乱の朝鮮半島から多くの朝鮮人が渡来し、東国や常陸・下毛野(下野の古称)・武蔵に住まわせた記録が残っている。
* 大和時代に渡来した朝鮮人が伝えた朝鮮語の影響が、現代の茨城方言に残っていても不思議ではない。県下には朝鮮語の影響と考えられている代表的な地名として水戸市の「木葉下(あぼっけ)」がある。古代朝鮮語では「土器を焼く村」の意味である。実際この地には、窯跡が20箇所以上発見されている。朝鮮語は、日本語の標準語に比べ濁音が多く、平坦なアクセントと力むような発音に特徴があり、カ行音の強い発音にも特徴があり、日本語の古代のカ音の「くわ」もその影響があるかも知れない。これらは正しく茨城方言の特徴でもある。茨城方言の代表語に嘘を意味する「ちく」がある。広辞苑では「物類称呼」に習って関東方言と解説されているが、正しくは「下野・常陸」の方言である。「ちく」とは、「筑羅」が転じたもので「巨済島の古称で涜盧(とくら)」の転か、①朝鮮と日本との潮境にあたる海。ちくらが沖。②転じて、どっちつかずの意。」の説が有力である。
* また、古代日本は西国が政治・文化の中心であり、古代の刑は死罪の他は、流刑が主だった。流刑は都から遠い地ほど重く、今でも誰もが知っているのが伊豆の島流しである。常陸は、土佐・隠岐・佐渡・伊豆・安房等と同様に流刑地の一つであったことが「続日本紀」にある。つまり、都から離れた土地である現代の高知県・島根県隠岐・佐渡島・伊豆半島・房総半島、そして茨城県は古代から中央の流刑者であって、上方語が早くから伝えられていたことが推測される。八丈流しも同様である。そのような古代の歴史を背景にしながら、常陸国は江戸に地理的に近いために江戸の下町言葉である「べらんめえ言葉」を今に残す関東でも特別な方言とも言える。
* また、江戸時代に使われた江戸言葉を高齢者が今でも残していることは、関東圏では特筆すべきである。
* 茨城方言は、地域によって言語が異なるというような表現の見方があるのは解らないではなく、確かに隣の字になると言い方が異なるというような言葉も無いわけではない。しかし、一つ一つの方言に歴史的な由来があり、柳田国男が「蝸牛考(がぎゅうこう」でカタツムリの方言調査をもとに提唱した「方言周圏論」を関東の圏域で裏付けるような言葉も珍しく無い。
* また、東国方言をベースにした関東方言の特徴を受け継ぎながら特に東北方言との関係が深く、東関東方言を使う圏域の核となる方言である。
* 東北方言の起源は茨城方言ではないかという説もあるほど茨城方言は、東北方言と共通語や共通表現が多い。現代の中央の言葉を中心に考えると茨城方言は間違いなくその中間に位置するから、論理上は理解し易い。はたしてそうであろうか。「方言周圏論」を借りれば、古代の東国語は、茨城~東北にあった言葉こそ起源であり、それに西国言葉が加わり、現代の関東方言の基礎が形成されたと思えなくも無い。
* 東北方言は、東西に二分できる。東北の西部地域は明らかに関西言葉の影響を残しているのである。
* 一方、茨城には明らかに西国言葉と言える言葉が残っている。これは、律令制の時代の流刑に由来するのか、もともと漢字が伝わる前の雅語としての日本語が残ったのかは不明である。
* 八丈方言との共通語の動植物を示す接尾語「め」の存在も重要である。
* そのような茨城方言も、昭和30年代後半の高度成長期を境に、特に常磐線沿線地域の若い世代を中心に若干の抑揚の特徴を残しながら標準語化が進行しつつある。
 
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