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王は軍人として陸軍中将に昇り[[師団|師団長]]、陸軍大学校長などを歴任し早くから大戦終結の聖断を[[昭和天皇]]に求めた。また、終戦が決まると皇族の[[臣籍降下]]も主張した。昭和22年([[1947年]])[[10月14日]]臣籍降下しその3日後には区役所にて住民手続きし'''賀陽恒憲'''となる。「平民的な宮様」として国民に慕われ、生活ぶりは質素であった。他方「野球の宮様」とも称され、昭和9年[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューヨーク]]、[[ヤンキー・スタジアム]]で試合を観戦した。終戦後、御歌所長を務めた後日清生命社友会会長等公職を歴任する。
 
妃との間に六男一女がおり、[[賀陽宮邦寿王]]、[[治憲王]]、[[章憲王]]、[[賀陽文憲|文憲王]]、[[賀陽宗憲|宗憲王]]、[[賀陽健憲|健憲王]]、[[美智子女王]]がいる。第一王子陸軍大尉邦寿王は後に賀陽政治経済研究所長、第二王子治憲王は後に[[外務省]]国連局長、在[[ブラジル]]大使、交流協会顧問となる。第五王子宗憲王は[[味の素]]勤務の後、大日本居合道連盟会長。また、美智子女王は[[徳大寺斉定]]に嫁す(後に離婚する)。章憲王の子、[[賀陽正憲]]は民間企業勤務の後[[宮内庁]]に入庁、現在外務省に出向し駐[[デンマーク]]大使館一等書記官を務めるほか、旧皇族男子としてテレビ出演をする。
 
王の邸宅はかつて[[閑院宮載仁親王]]や[[久邇宮邦彦王]]が住んだものだが、後に千鳥ヶ淵戦没者墓苑となった。