「フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
SieBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: ceb:Arkduke Franz Ferdinand sa Austriya
Peccafly (会話 | 投稿記録)
m lk add
12行目:
=== 暗殺 ===
[[Image:Franz Ferdinand and Sophie in Sarajevo.jpg|thumb|160px|left|暗殺直前の大公とゾフィー妃]]
フランツ・フェルディナント大公はチェコ人と結婚しただけあって、親[[スラヴ人|スラブ]]的な傾向があり、反面で大の[[ハンガリー王国|ハンガリー]]嫌いだった。政治的思想も親スラヴ的で、皇帝の[[ボヘミア]]王戴冠による三重帝国の大[[連邦国家]]制を望んでいた。[[1914年]][[6月]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の首府サラエボの軍事演習視察に出かけたのもそんな感情からだった。しかし[[1878年]]の[[ベルリン会議_(1878年)|ベルリン会議]]以来オーストリアが占領し、[[1908年]]には正式に二重帝国のオーストリア領に併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人も住んでおり、[[大セルビア]]主義者にとってはオーストリアに侵略された土地だった。[[ロシア帝国]]を後ろ盾とする汎スラブ主義に沸くバルカン半島では、オーストリア大公の来訪は絶好の餌食であった。大公夫妻はサライェヴォの町でセルビア民族主義を奉じる秘密組織[[黒手組]]の暗殺者[[ガブリロ・プリンチプ]]によって暗殺される。時に大公51歳、ゾフィー46歳であった。この[[サラエボ事件|サライェヴォ事件]]によりオーストリアがセルビアに[[宣戦布告]]、これが[[第一次世界大戦]]を引き起こすことになる。なおフランツ・フェルディナントの最期の言葉は「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては」であった。
 
== 子女 ==