「大日房能忍」の版間の差分
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[[比叡山]]の学僧であったが[[禅]]に傾倒し、[[摂津]][[水田]](現在の[[大阪府]][[吹田市]])に[[三宝寺]]を建立して禅道場を開いた。<br>
能忍の禅は独修によるものであり[[嗣法]]すべき師僧を持たなかった。この事は[[釈尊]]以来の法灯の
このため[[文治]]5年([[1189年]])、能忍は練中、勝弁の二人の弟子を[[宋]]に派遣し、[[育王山]]の[[拙庵徳光]]に自分の禅行が誤っていないか問うた。拙庵徳光は練中らに[[印可]]を与え能忍の禅を認めた。これにより能忍の名望は一気に高まった。<br>
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能忍没後の日本達磨宗は弟子の[[覚晏]]によって勢力を維持したが、[[安貞]]2年([[1228年]])、興福寺衆徒の焼き討ちにより多武峰を追われ[[越前]][[一乗谷]](現在の[[福井県]][[福井市]])の[[波著寺]]に難を逃れた。<br>
[[仁治]]2年([[1241年]])、[[懐鑒]]をはじめとする数十人の門人が[[曹洞宗]]の開祖[[道元]]門下に[[改宗]]し
従来は懐鑒らの改宗によって能忍の法系は断絶したとする説が一般的だったが、近年の研究によって室町時代末まで三宝寺に法灯が護持されていた事を示す資料が発見されている。
また定説では覚晏を二祖としているが、覚晏を傍流として本流を別にもとめる説もある。
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