#REDIRECT [[紅白歌合戦]]
'''NHK紅白歌合戦'''(エヌ エイチ ケイ こうはくうたがっせん)は[[日本放送協会|NHK]]が毎年[[大晦日]]の夜に放送する音楽番組。その年を代表するアーティストが女性は紅組、男性は白組に分かれて対抗形式で歌や演奏を披露する。通称「'''紅白歌合戦'''」「'''紅白'''」。
放送時間は、原則として、【第1部】19:30-21:20、【第2部】21:30-23:45。(いずれも[[JST]])<br>
毎年、テレビ[[視聴率]]が非常に高いことで知られている。最高視聴率は[[1963年]]の81.3%。最低視聴率は[[2004年]]の39.3%。<br>
デジタル総合テレビ、デジタル衛星第2テレビ、デジタル衛星ハイビジョンでは5.1サラウンドステレオでNHKホールの臨場感を楽しめる。<br>
過去の対戦成績は紅組28勝27敗。
==来歴==
===黎明期===
*第1回は[[1951年]][[1月3日]]に放送された。この時は[[ラジオ放送]]のみだった。初回放送時は現在の「紅白歌合戦」というタイトルではなく、「紅白音楽試合」であった。これは、当時[[政権]]を握っていた[[GHQ]]が「合戦」などといった言葉を使用することを許可しなかった為である。
*当初は1回だけの放送のつもりだったが余りの好評から翌[[1952年]]以降も継続して開催されるようになる。[[1953年]]の第3回では、[[テレビ]]での実験放送が実施された。この年の[[12月31日]]に第4回が放送され、以降、大晦日の放送が定着した。また、この第4回から会場に観客を入れての公開放送となった。
*当初は[[内幸町]]にあった旧NHK放送会館、[[東京宝塚劇場]]や有楽町・産経ホールなど会場を転々としていたが、[[1973年]]以降は渋谷・[[NHKホール]]に固定されて今日に至る。
===最盛期===
*[[1978年]]には、[[山口百恵]]の「プレイバック Part2」の歌詞に出てくる[[ポルシェ]]を「車」と言い換えさせる。このほかにも、[[1973年]]に[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]の「神田川」の歌詞に出てくる「クレパス」を変えさせようとしてかぐや姫が出場辞退するなど、NHKの謳う「''公正中立''」の杓子定規的な適用による歌詞改変事件が起こっている(ただし、[[2000年]]の[[aiko]]の場合、「ボーイフレンド」の歌詞に「[[テトラポッド]]」という商標が含まれていたものの改変されなかった)。←改変されなかったのは歌詞では「テトラポット」となっていたため。
*[[1984年]]には、[[都はるみ]]が紅白のステージを最後に引退(後に[[復活]])。最後には、代表曲「アンコ椿は恋の花」が歌われた。また、総合司会の[[生方恵一]]が「美空([[美空ひばり]])・・・都はるみさん」と言ってしまって[[週刊誌]]にひどく叩かれ翌年、NHKを退職する。大物歌手Hが「歌詞まちがえちゃいました~」と2回言う。
*[[1985年]]、[[森昌子]]が初司会&[[トリ]]。トリでは緊張と紅組メンバーや白組司会の[[鈴木健二]]に励まされ、大泣き。涙で[[歌詞]]が詰まるという事態に。最後には、[[森進一]]に抱きかかえられて話題をさらった。二人は、翌年の[[10月1日]]に[[結婚]]する。白組のトップバッター・[[吉川晃司]]は歌が終わっても、ステージに残り演奏を続け次の[[河合奈保子]]の登場を遮ってしまう。なお、吉川はその後河合に直接謝ったとのこと。しかし、吉川は2002年のNHKドラマ「真夜中は別の顔」に出演するまでNHK出入り禁止になった。
*[[1986年]]の白組司会、[[加山雄三]]はトップバッターの[[少年隊]]『仮面舞踏会』を誤って「少年隊で『[[仮面ライダー]]』」と紹介してしまう。[[松田聖子]]が約1年振りに復活。
*[[1989年]]からは放送時間、出場歌手も大幅に拡大され、名実ともにその年の音楽シーンを彩った歌手たちの祭典となった。年末の風物詩として定着し、アーティストにとってもこれに出場できることは大きな名誉であるとされるようになった。
*また、この年から[[日本レコード大賞]]とのバッティングが生じ、アーティストの奪い合いや掛け持ちによる大移動などの問題が生じた。
*[[安室奈美恵]]が[[1997年]]の紅白で当時の最年少の大トリを飾る。[[1998年]]の1年間の結婚&産休を挟んでこの年の紅白で涙のカムバックを果たし歌を終えた後、[[MAX (音楽グループ)|MAX]]のメンバーに慰められた。曲は共に「CAN YOU CELEBRATE?」だった。
===近年の状況===
*[[21世紀]]の現状は[[視聴率]]も減少気味であり、特に若年層や[[都市]]住民の紅白離れが甚だしい。また、歌手が紅白の出場依頼を断る例も多発しており、歌手が紅白を「名誉」ととらえる時代は過去のものとなったことがわかる。断られた具体例として、[[スピッツ_(バンド)|スピッツ]]、[[モンゴル800]]、[[井上陽水]]、[[桑田佳祐]]、[[宇多田ヒカル]]、[[松任谷由実]]等が挙げられる。
*NHKもこれらのことはよく認識しており、近年は色々な手をうっているが、効果は現れていない。NHKの方針か、近年は海外アーティストの招致にも積極的で、[[アジア]]・[[南米]]からも出場者が現れた。
*昔は出場を断ることが大変なニュースになっていたのだが、現在は出演を断ることがかっこいいと思っている人もいる。
*近年は[[小林幸子]]と[[美川憲一]]の豪華衣装対決に注目が集まりがちである。
*初出場者が記者会見するのが恒例となっていて、その様子は[[民間放送]]でも報じられる。
*舞台袖の通路は放送終了後にアーティストが大挙するため、正月明けの[[ワイドショー]]の格好の[[ネタ]]となる。また、この通路は[[和田アキ子]]が翌年の[[干支]]の被り物をして通ることでも有名である。
*この番組への出演は翌年初頭のアーティストのCD売り上げに多大な影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている。
=== 1997年(第48回) ===
*司会者
:白組:[[中居正広]]
:紅組:和田アキ子
:総合司会:[[宮本隆治]]アナウンサー
:ラジオ中継:[[水谷彰宏]]アナウンサー
*大トリは、五木ひろしの「千曲川」。
*優勝は白組。
=== 1998年(第49回) ===
*司会者
:白組:中居正広
:紅組:[[久保純子]]アナウンサー(当時)
:総合司会:宮本隆治アナウンサー
:ラジオ中継:水谷彰宏アナウンサー
*安室奈美恵、産休を終え、1年ぶりのカムバック。2年連続で「CAN YOU CELEBRATE?」を歌う。安室が感涙に浸るシーンもあった。安室登場時の最高視聴率は64.3%。
*大トリは、和田アキ子の「今 あなたにうたいたい」。この時、和田が曲の一部を、マイクを使わずに歌った。
*優勝は紅組
*視聴率は57.2%。紅白が2部制になって最高視聴率を記録。
=== 1999年(第50回) ===
*司会者
:白組:[[中村勘九郎]]
:紅組:久保純子アナウンサー(当時)
:総合司会:宮本隆治アナウンサー
:ラジオ中継:水谷彰宏アナウンサー
*この年、当時の史上最多の観覧応募総数59万8753通(約208倍)の中から約3000人が生で見守った。
*大トリは、北島三郎の「まつり」。
*審査員審査では、6-5で紅組がリードしたが、客席審査で、白組が逆転し、6-7で白組の逆転優勝。
*終了後、出演者とNHKホールの観客が、年越しのカウントダウンを行った。
*視聴率は50.1%。
===[[2000年]](第51回)===
*司会者
:白組:[[和泉元彌]]
:紅組:久保純子アナウンサー(当時)
:総合司会:宮本隆治アナウンサー
:ラジオ中継:[[阿部渉]]アナウンサー
*20世紀最後の紅白は、初めてBSデジタルハイビジョンでも放送。
*[[長嶋茂雄]](当時巨人軍監督)、[[高橋尚子]]、田村亮子(現・[[谷亮子]])がゲスト。開会宣言も行った。
*大トリは、五木ひろしの「山河」。
*優勝は紅組。
*視聴率は48.4%。初めて50%を割る。
===[[2001年]](第52回)===
*司会者
:白組:阿部渉アナウンサー
:紅組:[[有働由美子]]アナウンサー
:総合司会:[[三宅民夫]]アナウンサー
:ラジオ中継:[[小野文惠]]アナウンサー、[[高市佳明]]アナウンサー
*21世紀最初の紅白は、世界初、生娯楽番組での[[字幕放送]]として放送。
*大トリは、北島三郎の「山」。
*優勝は白組。
===[[2002年]](第53回)===
*司会者
:白組:阿部渉アナウンサー
:紅組:有働由美子アナウンサー
:総合司会:[[三宅民夫]]アナウンサー
:ラジオ中継:小野文惠アナウンサー、高市佳明アナウンサー
*2002年の紅白は、演奏の三原綱木とザ・ニューブリード、東京放送管弦楽団が久しぶりに表舞台に。
*この年から、BSデジタルハイビジョン視聴者によるお茶の間投票が開始された。
*[[ザ・ドリフターズ]]が、「[[思い出のメロディー]]」に続き出場。
*普段テレビに出ない[[中島みゆき]]が黒部ダムの地下発電所から中継で出演して『[[地上の星]]』を歌い、この部分が最高瞬間視聴率となる。
*大トリは、五木ひろしの「おふくろの子守歌」。
*優勝は白組。
===[[2003年]](第54回)===
*司会者
:白組:阿部渉、[[高山哲哉]]両アナウンサー
:紅組:有働由美子、[[膳場貴子]]両アナウンサー
:総合司会:[[武内陶子]]アナウンサー
:ラジオ中継:小野文惠アナウンサー、[[藤崎弘士]]アナウンサー
*この年は、紅組・白組の垣根を越えたアーティストの競演があった。([[錦織健]]と[[女子十二楽坊]]、「涙そうそう」をブレイクさせた[[夏川りみ]]、[[作詞]]の[[森山良子]]、[[作曲]]の[[BEGIN]]。森山は長男・[[森山直太朗]]と曲紹介時に)
*この年は[[東京放送|TBS]]が「[[K-1|K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!]]」([[ナゴヤドーム]])を、[[フジテレビ]]が「[[PRIDE|PRIDE SPECIAL 男祭り2003]]」([[さいたまスーパーアリーナ]])を、[[日本テレビ]]が「イノキ・ボンバイエ 2003 [[馬鹿]]になれ [[夢]]をもて」([[神戸ウイングスタジアム]])を放送して、三つ巴の[[格闘技]]興行[[戦争]]が勃発した。そのあおりを食ったためか、紅白は翌[[2004年]][[2月11日]]に総合テレビで再放送されている。
*この回も2003年を代表する各界の[[芸能人]]&スポーツ人等が審査委員として登場。特に、[[阪神タイガース]]を18年ぶりの優勝に導いた[[星野仙一]]が紹介されると大歓声が上がった。また、[[アメリカ]]・[[メジャーリーグ]]の[[ニューヨーク・ヤンキース]]に移籍し、チームの4番打者として[[ワールドシリーズ]]出場を果たした[[松井秀喜]]とその父親である[[松井昌雄|昌雄]]氏の自宅中継もあった。
*2003年は、白組が紅組に15-0で圧勝した。また、グループとして初のトリとして[[SMAP]]が大トリを務め、「[[世界に一つだけの花]]」を熱唱して、勝利に貢献した。
===[[2004年]](第55回)===
*大鹿文明(おおしかふみあき)歌謡・演芸番組部長が制作統括を担当。元美術担当の大鹿部長は「紅白には歌謡・演芸番組部全80人が取りかかる、“忠臣蔵”と同じ総力戦」とコメントした。
*司会者
:白組:「[[お昼ですよ!ふれあいホール]]」「[[NHK歌謡コンサート]]」の、阿部渉アナウンサー(4年連続)
:紅組:「[[ためしてガッテン]]」「[[土曜スタジオパーク]]」「[[鶴瓶の家族に乾杯]]」の、小野文惠アナウンサー(初)
:総合司会:「[[サタデースポーツ|サタデー]]&[[サンデースポーツ]]」&「[[難問解決!ご近所の底力]]」の[[堀尾正明]]アナウンサー(初)
:ラジオ中継:「爆笑[[オンエアバトル]]」4代目司会の、藤崎弘士アナウンサー(2年連続)と、「BS思い出のポップス」や「地球ふしぎ大自然」(ナレーション)などで活躍の、[[住吉美紀]]アナウンサー(初)
*NHKアナウンサーの登場はそのほかにゆずの「栄光の架橋」の曲紹介の時はアテネオリンピックで体操男子の実況を担当した刈屋冨士雄アナが日本体操男子代表とともに登場した。
*全体的に小粒な人選になってしまった。せっかく行った史上初の「出場歌手希望世論調査」もむなしいものとなった。出場すれば目玉となった[[サザンオールスターズ]]、[[Mr.Children]]、[[宇多田ヒカル]]などにまたも「逃げられ」、[[柴咲コウ]]、松田聖子も辞退。おまけに昨年の大トリ、SMAPもシングルリリースがないことを理由に出場を辞退してしまった。出場歌手には、数曲しかヒットが無いのに出場している歌手(1曲だけの人も)いる。
*さらに、初出場を予定していた[[ハロープロジェクト]]のユニット「[[後浦なつみ]]」のメンバーである[[安倍なつみ]]が、[[盗作]]問題により出場を辞退してしまったため、[[後藤真希]]&[[松浦亜弥]]という間に合わせのユニットとして出場するという事態になった。また、同じく初出場の[[氣志團]]もメンバーの星グランマニエが体調不良の為1人足りない5人での参加となった。
*派手な衣装で知られる[[小林幸子]]は、同年10月23日に発生した[[新潟県中越地震]]の影響も配慮し、派手な衣装を封印し、原点に立ち返って出身地・新潟を舞台とした「雪椿」を全出演者の最後に歌唱する大トリとして歌唱した。
*裏番組は前年よりも強力となり、TBSが「K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!」を[[大阪ドーム]]から、フジテレビも「PRIDE男祭り2004~SADAME~」をさいたまスーパーアリーナから、それぞれ中継放送し、前年同様に格闘技番組が大健闘した。また、日本テレビは「2004年の視聴率女王」と称された[[細木数子]]を裏番組に立て、「[[細木数子]]の大晦日スペシャル!!」(14.4%)を放送、これも「紅白1部潰し」に大健闘した(余談であるが、この番組での実際の「被害者」は日本レコード大賞であろう)。その為に2004年の紅白は[[視聴率]]が史上初めて40%を割った(第1部30・3%、第2部39・3%)。
*2004年は、紅組が8-5で快勝という結果となった。
*番組別[[視聴率]]こそ終始トップを記録し、面目を守ったものの、歌手別[[視聴率]]で50%を超える歌手は現れず、また瞬間最高[[視聴率]]を記録したシーンが結果発表のシーンとなるなど、目玉不在の印象は否めなかった。
== 審査方法 ==
勝敗は、審査員、地上・BSデジタル放送の双方向システム(電話回線使用)による一般審査員などの投票で決定する。
* [[1981年]]からは、客席審査員として会場の観客全員も審査を開始。観客が優勢と判断した色を団扇で示し、双眼鏡を持った日本野鳥の会が数える風景は恒例となった。
* 1981年から[[1985年]]と[[1992年]]は[[日本野鳥の会]]が、[[1993年]]から[[2002年]]は[[麻布大学]]野鳥研究部が数えた。
* 2002年、一部の客席審査員はボールを使って投票した。これが好評だったため、2003年は全ての客席審査員がボールを使った投票になった。これはNHK総合テレビの人気番組「[[オンエアバトル]]」の方式に倣ったもの。
* 2002年からBSデジタル放送の双方向機能を利用したお茶の間審査委員による採点も反映されるようになった。(2003年からは地上デジタル放送も対象に)紅組ならリモコンの赤ボタンを白組ならリモコンの青ボタンで選択する。
* 2003年の決め方は審査員の11名が1人1個ずつボールを持っていて全アーティスト終了後に優勢と思う方にボールを入れる。そしてNHKホールの一般のお客様には「[[オンエアバトル]]」でお馴染みのボール投入システムでより多くのキロバトル数/KBをあげた方にボールが2個追加。更に全国からもBSデジタルハイビジョンまたは地上デジタル放送の双方向でご覧の「紅白 デジタルお茶の間審査委員」の方々から全部で3・4回程の審査をして最終的により多くのポイントを獲得できれば更に2個追加。つまり全部でボールの数は15個の奇数だから引分け無しの完全決着。ボールを観客に投げながらカウントしていきより多くのボールを獲得すれば優勝となる。(2004年は審査員人数分のボール11個と「紅白 デジタルお茶の間審査委員」の優勢組の追加ボール2個の計13個となった。)
* 2004年は、全国BSデジタルハイビジョンまたは地上デジタル放送による「デジタルお茶の間審査委員」の結果による勝者に2票あたえられ、審査員10名およびNHKからの審査員長の計11名分の票の合計による13票によって争われた。1981年から実に24年連続に渡って行われてきた客席審査は行われなかった。
==各年の出場者・曲目==
各年の音楽を参照。
*2000年代
**[[2003年の音楽#NHK紅白歌合戦|2003年]]
**[[2002年の音楽#NHK紅白歌合戦|2002年]]
**[[2001年の音楽#NHK紅白歌合戦|2001年]]
**[[2000年の音楽#NHK紅白歌合戦|2000年]]
*1990年代
**[[1999年の音楽#NHK紅白歌合戦|1999年]]
**[[1998年の音楽#NHK紅白歌合戦|1998年]]
**[[1997年の音楽#NHK紅白歌合戦|1997年]]
**[[1996年の音楽#NHK紅白歌合戦|1996年]]
**[[1995年の音楽#NHK紅白歌合戦|1995年]]
**[[1994年の音楽#NHK紅白歌合戦|1994年]]
**[[1993年の音楽#NHK紅白歌合戦|1993年]]
**[[1992年の音楽#NHK紅白歌合戦|1992年]]
== 外部リンク ==
* [http://www.nhk.or.jp/kouhaku/ NHK紅白歌合戦](公式。冬季)
* [http://www.nhk-jn.co.jp/001headline/2004/015/015.htm 第55回NHK紅白歌合戦チャリティFAX]
* [http://www.kouhaku.info/ 紅白歌合戦情報] - リンク集など
* [http://www1.plala.or.jp/nakaatsu/ 紅白歌合戦完全マニュアル] - 視聴率など。
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