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関の生涯については、残念ながらあまり多くが伝わっていない。
養子である関新七郎久之が重追放になり、家が断絶したことが理由の一つである。
 
 
若くして関家の養子となる。幼少時から[[吉田光由]]の『[[塵劫記]]』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。[[甲斐国]][[甲府藩]]([[山梨県]][[甲府市]])の[[徳川綱重]]、徳川綱豊([[徳川家宣]])に仕え,勘定吟味役となる。綱豊が6代将軍となると直参として[[江戸]]詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。
甲府藩の国絵図の編纂に関わり、又改暦に備えて[[授時歴]]を深く研究した
(その後、改暦は[[渋川春海]]によって行われ、関がかかわることは無かった
 
関は[[和算]]が中国の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。
特に宋金元時代に大きく発展した[[天元術]]を深く研究し、根本的な改良を加えた。[[延宝]]2年([[1674年]])、『発微算法』を著し、[[筆算]]による[[代数]]の計算法(点竄術、てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。行列式や終結式の概念をヨーロッパより早い時期に提案したことはよく知られる。
 
また、関は正131072角形を使い、[[円周率]]を[[小数]]第11位まで算出した。本計算ではエイトケン加速を用いており、世界的にみても数値的加速法のもっとも早い適用例の一つである(エイトケンによる導入は[[1926年]])[[ヤコブ・ベルヌーイ]]に先駆けて[[ベルヌーイ数]]を発見していたことも知られている。
ただし、死後神格化されてしまったため、関個人の業績と弟子のそれを区別して特定することは、資料の不足もあって容易ではない。
 
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唐のころから一元高次方程式を扱い始め、宋金元の時代に大いに発展し、一般の実数係数の一元高次方程式の数値的解法(ホーナー法、ホーナーによる提唱は19世紀)を見出した。また、幾何の問題も機械的に代数の問題に帰着してとして扱った。しかし、明代に入ると中国では天元術は衰え、専ら李氏朝鮮で継承されてゆく。朝鮮での発展や日本への流入の過程は今でも不明な点が多い。日本では17世紀に入ってから、もっぱら京阪の和算家、橋本正数、[[沢口一之]]らによって熱心に研究された。[[沢口一之]]の『'''古今算法記'''』(1670年、寛文10年)は天元術の学習がほぼ完了したことを示している。
 
天元術の欠点は、多変数の高次方程式を扱えなかったことである。これは未知数を記号ではなく、算木を置く場所で表現しているからで、例えば(1 3 4) という配置は一変数多項式<math>1+3x+4x^2</math>または他変数の一次式<math>x+3y+4z</math>かのいずれかを表す([[朱世傑]]著『'''四元玉鑑'''』では一般性は欠くものの、4変数をあつかっているが、変則的で難解であるためあまり広まらなかった。いずれにせよ、これ以上の一般化は困難であったと思われるしたがって、二つ目以降の未知数を文章による議論で消去して天元術を用いねばならなかった。上述の『'''古今算法記'''』は巻末に15問の未解決問題(遺題)を提示したが、それらはまさに多変数の方程式を必要とするものであった。
 
関は『'''発微算法'''』(1674年、延宝2年)でそれらすべての「解」を与えた。ここで用いられたのが点竄術(傍書法)で、二つ目以降の未知数を文字であらわすことで、多変数の方程式を表わした。
ただし、『'''発微算法'''』は著しく省略が多く、変数を消去して得られる一変数代数方程式が書かれているだけ(それすらも詳細を端折った回答もあった)で、その背景にある点竄術(傍書法)は一切表に現れない。その上、遺された刊本の比較から、初期の版では若干の誤りがあったことが指摘されている。そのため、その正統性に疑いをもつ数学者も現れた。
例えば、田中由真の弟子、佐治一平(さじ かずひら、生没年未詳)は15の回答のうち12は誤りである、と主張した(実際には、佐治の指摘のほとんどは的外れであったそして、田中由真は『'''算法明解'''』(1679)で関とは別の回答を
(関のものとは若干記号法が異なるが)点竄術(傍書法)を用いて与えた。こちらの方は少なくとも関の書いたものよりは理解しやすい。
そこで、弟子の建部賢弘が『'''発微算法演段諺解'''』(1685)でその解法の詳細を公開し、併せて若干の誤りを(場合によっては注記せずに)訂正している(前半で『'''発微算法'''』の全文を再録しているのだが、そこに注釈なしで訂正を潜りこませている
 
さらに進んで『'''解伏題之法'''』([[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]]))では、[[終結式]]を用いた消去の一般的な理論を示した。そして、終結式を表現するために[[行列式]]に相当するものを導入した。
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この一連の研究により、数学の問題は多元の方程式に表現できれば、原理的には解けることになった。つまり、消去の一般論を用いて一元の方程式に帰着し、ホーナー法で数値的に解けばよいのである。また、中国数学以来の伝統で、図形の問題はピタゴラスの定理などを用いて機械的に代数に落して処理することになっていたので、これで実に広範な問題が原理的には解けることになった。
ただし、上記のプロセスを実際に実行するのは多くの場合、計算量がかかりすぎて現実的ではない。実際、『'''発微算法'''』で方程式のみを求めて数値解の計算に進まなかった理由はここにある。また、ある問題については最終的に得られる方程式の次数が1458次にもなってしまい、方程式を具体的に書き下すことすらできなかった(この問題は最近になって、これより簡単な方程式が得られないこと、そしてただ一つの実数解をもつことが確かめられたしかし、以後、連立高次方程式に帰着されてしまう問題は、和算の中心的課題ではなくなった。
 
行列式が[[ライプニッツ]]によって導入されたのは関と同じ1683年ころであるが、『'''解伏題之法'''』に比較しても一般性において劣る。そして一般の行列式の公式や終結式の理論が発見されるのは18世紀の中ごろである。先立って、楊輝(中国、[[1238年]]?~[[1298年]])は『詳解九章算術』で、[[カルダノ]]はArs Magna(1580)の中で数字係数の二元連立一次方程式の解を行列式と同様の計算式であたえている。
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{{DEFAULTSORT:せき たかかす}}
[[Category:和算家]]
[[Category:江戸時代の人物]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:17世紀の数学者|6420300]]