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'''蒲生 郷成'''(がもう さとなり 生年不詳 - [[慶長]]19年([[1614年]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]の武将。父は[[坂勝則]]。[[蒲生郷喜]]、[[蒲生郷舎]]らの父(または兄ともいう)。蒲生家家老。通称は源左衛門。
初め、坂源次郎と名乗り、父勝則とともに[[関小十郎右衛門]]、次いで[[柴田勝家]]へ仕えた。[[天正]]11年([[1583年]])、[[賤ヶ岳の戦い]]での勝家の自刃後、[[蒲生氏郷]]に家老として仕える。[[九州征伐]]での[[岩石城]]攻略の功によりを立て、関白[[豊臣秀吉]]にも称賛されたため、のちに蒲生姓を許され、蒲生郷成と名乗った。天正18年([[1590年]])、主君氏郷が会津藩主となると[[白石城]]代を務め、次いで[[二本松城]]主となり、4万石を知行する。[[朝鮮出兵]]中の[[蒲生騒動]]では[[蒲生郷可]]と[[蒲生郷安]]との仲裁した。氏郷の死後、[[慶長]]3年([[1598年]])、跡を継いだその子[[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]]が[[下野国|下野]][[宇都宮]]へ移封されると、[[常陸国|常陸]][[笠間城]]主となり、3万石を領した。仕置奉行の一人となった。慶長5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]後、秀行が会津藩主へ返り咲くと会津[[守山城 (陸奥国)|守山城]]代、[[三春城]]代を務め、次いで[[須賀川城]]主となり、4万5千石に加増された。その後、同僚の[[岡重政]]と対立し、蒲生家を出奔し、子の郷舎とともに[[藤堂高虎]]へ仕えた。[[慶長]]19年([[1614年]])、重政が秀行の妻[[振姫]]の勘気に触れ、重政の失脚すると大御所[[徳川家康]]の斡旋により、帰参を許されるが、会津へ向かう途中で病死した。
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