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=== 創建と大仏造立 ===
東大寺の起源は大仏造立よりやや古く、8世紀前半には大仏殿の東方、[[若草山]]麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年([[733年]])、若草山麓に創建された'''金鐘寺'''(または'''金鍾寺'''(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『[[続日本紀]]』によれば、[[神亀]]5年([[728年]])、第45代の天皇である聖武天皇と[[光明皇后]]が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年([[741年]])には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌天平14年([[742年]])、金鐘寺は大和国の[[国分寺]]と定められ<ref>異説として大和国国分寺は「総国分寺」である東大寺とは別個に設置され、奈良県[[橿原市]]八木町にある[[国分寺 (橿原市)|国分寺]]をこれにあてる説も存在する。</ref>、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年([[747年]])で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年([[748年]])が最初である。
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