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=== 起源 ===
ロンドンの街の起源は[[ローマ帝国]]による[[ブリタンニア|ブリタニア]]支配にまで
その後[[2世紀]]頃には防衛のため、テムズ川岸を除く街の三方に市街壁が巡らされた。およそ4万人の人口を擁していたシティを中心として、市内はローマとブリタニアの交易で活況を呈し、現在の[[ウェストミンスター]]地区にあたる地域も独立した集落が形成されており、現在のフリート・ストリートおよびストランド・ストリートによって結ばれていた。しかし[[4世紀]]からは衰退し、[[5世紀]]初めにはローマ人は撤退。代わって[[アングロ・サクソン人]]がこの地方を征服した。初代の[[セント・ポール大聖堂]]は、サクソン人の司教によって[[604年]]に建設されたとされる。[[9世紀]]後半、[[アルフレッド大王]]がこの地を[[ウェセックス]]の首都とする。その後、イギリス史は空白期間が続く。
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=== 中世 ===
[[画像:Westminster Abbey - West Door.jpg|thumb|150px|[[ウェストミンスター寺院]]]]
[[11世紀]]半頃[[ウェセックス]]最後の王となった[[エドワード懺悔王]]は、[[ウェストミンスター]]に大修道院の[[ウェストミンスター寺院]]と王宮の[[ウェストミンスター宮殿]]を建設した。[[1066年]]にイングランドを征服した[[ノルマンディ公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ギヨーム2世]]は、ウェストミンスター寺院でイングランド王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]として即位し、ウェストミンスター宮殿を住まいとした。以後、ウェストミンスター宮殿を中心とする[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]は政治と宗教の中心地となる。
=== 急成長期 ===
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[[16世紀]]に[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]のもと、[[宗教改革]]が進展する中で修道院解散に伴いシティ内外で没収地の開発が進んだ。これにより、多くの人口を許容できるようになったロンドンは、当時の経済発展とあわせ急激に成長し始めた。シティとウェストミンスター間には市街地が成長して両者は一体化し、[[17世紀]]中期には人口50万以上、さらに半世紀後には70万人以上が居住している。
[[1566年]]、[[エリザベス1世]]が王立取引所を開くとシティの重要性は急速に増大する。街の発展にともなって貧困層が流入し、これが王権への抵抗勢力になることを恐れた女王は、[[1580年]]に市門の外[[マイル|3マイル]]以内に新
[[画像:Stpauls from paternoster sq.jpg|thumb|150px|[[ロンドン大火|大火]]後に再建された[[セント・ポール大聖堂]]]]
[[1665年]]の[[ペスト]]の大流行では10万人近い人々が死亡したとされる。翌年[[1666年]]にはシティのパン屋から出火した火の手が市壁に囲まれた地の3分の2まで広がり、辺りを灰と化させた[[ロンドン大火]]が起こった。これは当時、ロンドンのほとんどの建造物が木造だったこと、道路の幅が狭過ぎもらい火によって火の手
再建されたシティは、かつて木造建築が雑然としていた町並みとは全く異なるものとなり、市街中心部は石造に一新して不燃化され、民間投資によって標準化された住居建築群が建
=== 産業革命 ===
[[画像:London , Kodachrome by Chalmers Butterfield edit.jpg|thumb|200px|[[自動車]]が普及して交通量が増大した[[1949年]]の[[ピカデリー・サーカス]]]]
[[19世紀]]から[[20世紀]]にかけて[[産業革命]]を経験したロンドンはさらに発展を遂げ、19世紀初頭にかけて橋が増設され、[[テムズ川]]南岸が発展。東部や南部には大きな工業地帯が形成され、東部のロンドン港([[ドックランズ]])は世界有数の港湾となった。[[1863年]]には世界初の[[地下鉄]]が開業するなど、交通機関も発達して市街地はさらに拡大した。[[1888年]]、ロンドン州の発足によってそれまで別々の町だったシティとウェストミンスターを含む現在のインナーロンドンが、
19世紀にロンドンの人口は爆発的に増加し、20世紀初頭には人口が440万人を超えたが、それと同時に下水道設備の不備や貧困地域の拡大などの現代的な都市問題が深刻化した。特に大気汚染が深刻で、石炭の煤煙による[[スモッグ]]の発生により「霧の都」と揶揄された。
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