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=== 起源 ===
ロンドンの街の起源は[[ローマ帝国]]による[[ブリタンニア|ブリタニア]]支配にまでさかのぼる。ローマ人は[[イングランド]]を征服し、[[43年]]には[[テムズ川]]北岸、現在の[[シティ・オブ・ロンドン]](シティ)にあたる場所に[[ロンディニウム]]を建設してこれをブリタニアの首都とした。街を建設したのはローマ人だが、それ以前にこの地域周辺には[[ケルト人]]が居住しており、ローマによる初期の植民の跡が残されている。[[61年]]には女王[[ブーディカ]]に率いられたケルト族がロンディニウムを襲撃し、ローマ人から都市を奪還した。現在の[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]にある遺跡からはこの争いによるものと見られる焼け焦げた木材などが出土している。
 
その後[[2世紀]]頃には防衛のため、テムズ川岸を除く街の三方に市街壁が巡らされた。およそ4万人の人口を擁していたシティを中心として、市内はローマとブリタニアの交易で活況を呈し、現在の[[ウェストミンスター]]地区にあたる地域も独立した集落が形成されており、現在のフリート・ストリートおよびストランド・ストリートによって結ばれていた。しかし[[4世紀]]からは衰退し、[[5世紀]]初めにはローマ人は撤退。代わって[[アングロ・サクソン人]]がこの地方を征服した。初代の[[セント・ポール大聖堂]]は、サクソン人の司教によって[[604年]]に建設されたとされる。[[9世紀]]後半、[[アルフレッド大王]]がこの地を[[ウェセックス]]の首都とする。その後、イギリス史は空白期間が続く。
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=== 中世 ===
[[画像:Westminster Abbey - West Door.jpg|thumb|150px|[[ウェストミンスター寺院]]]]
[[11世紀]]半頃[[ウェセックス]]最後の王となった[[エドワード懺悔王]]は、[[ウェストミンスター]]に大修道院の[[ウェストミンスター寺院]]と王宮の[[ウェストミンスター宮殿]]を建設した。[[1066年]]にイングランドを征服した[[ノルマンディ公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ギヨーム2世]]は、ウェストミンスター寺院でイングランド王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]として即位し、ウェストミンスター宮殿を住まいとした。以後、ウェストミンスター宮殿を中心とする[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]は政治と宗教の中心地となる。その一方[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]はこの頃すでに自治機能を有する商業都市に発展しており、ウィリアム1世は[[ロンドン塔]]などの要塞をシティの東西に建設して市民を威圧した。しかし経済力のあるシティは、[[12世紀|12]]~[[13世紀]]に市長を選出する権利や独自の法廷をもつ権利を獲得、[[14世紀]]半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市として独立を保持した。
 
=== 急成長期 ===
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[[16世紀]]に[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]のもと、[[宗教改革]]が進展する中で修道院解散に伴いシティ内外で没収地の開発が進んだ。これにより、多くの人口を許容できるようになったロンドンは、当時の経済発展とあわせ急激に成長し始めた。シティとウェストミンスター間には市街地が成長して両者は一体化し、[[17世紀]]中期には人口50万以上、さらに半世紀後には70万人以上が居住している。
 
[[1566年]]、[[エリザベス1世]]が王立取引所を開くとシティの重要性は急速に増大する。街の発展にともなって貧困層が流入し、これが王権への抵抗勢力になることを恐れた女王は、[[1580年]]に市門の外[[マイル|3マイル]]以内に新しいたに物をたて建築することを禁じる布告を出した。しかし、町の拡大を法令で阻止することが不可能なことはやがて明らかとなる。
 
[[画像:Stpauls from paternoster sq.jpg|thumb|150px|[[ロンドン大火|大火]]後に再建された[[セント・ポール大聖堂]]]]
[[1665年]]の[[ペスト]]の大流行では10万人近い人々が死亡したとされる。翌年[[1666年]]にはシティのパン屋から出火した火の手が市壁に囲まれた地の3分の2まで広がり、辺りを灰と化させた[[ロンドン大火]]が起こった。これは当時、ロンドンのほとんどの建造物が木造だったこと、道路の幅が狭過ぎもらい火によって火の手まったことが、火災の規模を拡大させた理由とされる。
 
大火が起こる4年前から[[広場]]や[[都市計画]]のあり方について独自に研究をしていた[[クリストファー・レン]]は、更地となったロンドン中心部をかつての雑然とした町から、[[パリ]]のような壮大な都市として生まれ変わせる好機として、[[クリストファー・レン]]は新たに都市計画を構想した。しかし、この構想は都市の整備によって土地を失うことを恐れた地主達が、利己的に家々建物を建したことによって計画倒れに終わった。だが、レンは大火が起き再び発生するのを防ぐ未然に阻止するための法制度整備に努めた。その結果、[[1667年]]の再建法では新築建造物には石と煉瓦のみを使用するよう定められた。
 
再建されたシティは、かつて木造建築が雑然としていた町並みとは全く異なるものとなり、市街中心部は石造に一新して不燃化され、民間投資によって標準化された住居建築群が建され、かつてレンの構想した都市程ではないが道路も拡幅された。[[18世紀]]には[[セント・ジェームズ・パーク]]から[[リージェンツ・パーク]]に至る大通りが敷かれ、街路沿いに[[ピクチュアレスク|ピクチャレスク]]な建物が整然と並ぶ景観が形成された。さらに[[1760年代]]には中世からの市壁と門も取り壊されている。
 
=== 産業革命 ===
[[画像:London , Kodachrome by Chalmers Butterfield edit.jpg|thumb|200px|[[自動車]]が普及して交通量が増大した[[1949年]]の[[ピカデリー・サーカス]]]]
[[19世紀]]から[[20世紀]]にかけて[[産業革命]]を経験したロンドンはさらに発展を遂げ、19世紀初頭にかけて橋が増設され、[[テムズ川]]南岸が発展。東部や南部には大きな工業地帯が形成され、東部のロンドン港([[ドックランズ]])は世界有数の港湾となった。[[1863年]]には世界初の[[地下鉄]]が開業するなど、交通機関も発達して市街地はさらに拡大した。[[1888年]]、ロンドン州の発足によってそれまで別々の町だったシティとウェストミンスターを含む現在のインナーロンドンが、はじめて行政区域としてまとまった。
 
19世紀にロンドンの人口は爆発的に増加し、20世紀初頭には人口が440万人を超えたが、それと同時に下水道設備の不備や貧困地域の拡大などの現代的な都市問題が深刻化した。特に大気汚染が深刻で、石炭の煤煙による[[スモッグ]]の発生により「霧の都」と揶揄された。