「廃嫡」の版間の差分
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=== 病弱 ===
病弱だったり、身体的・精神的な[[障害]]を抱えている場合などにも廃嫡はなされた。家を保てないことは即ち一家郎党が路頭に迷うことになるためである。たとえば、[[徳川将軍家]]において、虚弱で言語が不明瞭であるとして不安視された[[徳川家重]]は、[[徳川家光]]以来の長幼の順序を守ると言う事で廃嫡こそなされなかったが、[[御三家]]や[[御三卿]]、その他の[[大名]]家では幕命での廃嫡が往々にしてなされた。
=== 無能 ===
政治的・軍事的あるいは経済的な能力が欠如している場合に発生する。大抵の場合、素行不良と同時に発生する。
=== 偏愛 ===
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=== 実子誕生 ===
[[養嗣子]]として入り嫡男とされた後に養父に実子が誕生した時などに、養嗣子を立てる名分が無くなったり、実子に継がせたいという親や家臣らの意向から養嗣子の廃嫡が行われることがある。たとえば、[[細川勝元]]は継嗣がいなかったため、[[山名宗全]]の子[[山名豊久]]を養子にしていたが、実子[[細川政元]]が誕生した後には、豊久を廃嫡して仏門に入れている。[[毛利輝元]]の養嗣子[[毛利秀元]]のように、別家を立てさせる場合もある。
=== 正嫡誕生 ===
側室の子で、正室に男子が誕生しないため仮の嫡子として立てられていた者が後、正室に男子が誕生したために廃される例。前述の実子誕生の例に近い。
=== 為政者への気遣い ===
[[関ヶ原合戦]]の折、[[細川忠隆]]の正室である[[前田利家]]の娘・千世は、[[細川ガラシャ]]を残して、姉である[[豪姫]]の屋敷に逃れた。忠隆の父[[細川忠興]]はこのことに激怒し、千世との離縁を忠隆に迫るが、忠隆が拒否したため廃嫡した。ただしこの件に関しては、[[前田氏|前田]]と[[細川氏|細川]]との姻戚関係が[[徳川氏|徳川家]]から睨まれていたことが廃嫡につながったと、現在では解釈されている([[細川忠隆]]参照)。
=== 上位家系、主家からの養子受け入れに伴う廃嫡 ===
加賀前田家一門の[[前田土佐守家]]においては、主家である前田家から養子を迎えるに際して嫡男を廃嫡した例がある。
[[保科正光]]の養子となっていた[[保科正貞]]は、兄が将軍[[徳川秀忠]]の[[落胤]]([[保科正之]])を秘かに養子として迎えることになったために、一度廃嫡された。後に正之が秀忠の子として認められると、保科氏嫡流を存続させるために改めて同氏の家督を継ぐことになった([[飯野藩]]参照)。
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