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Stanislaus (会話 | 投稿記録)
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'''播磨稲日大郎姫命'''(はりま いなび おおいらつめ みこと)は第12代[[景行天皇]]の[[皇后]]。[[日本武尊]]の母。[[記紀]]および『[[風土記]]』に登場する伝説的な人物
 
[[播磨風土記]]では、父は丸部(わに)臣の祖・[[比古汝茅]]、母は[[吉備比古]]の[[妹吉備比売]]であり、[[印南別嬢]](いなみのわきいらつめ)とする。[[景行天皇]]が[[播磨]]に[[印南別嬢]]を妻問いに行く伝承が載っている。
 
==古典の記述==
== 宮内庁書陵部陵墓地 ==
===『古事記』===
* [[日岡陵]] - [[兵庫県]][[加古川市]]加古川町.
「針間之伊那毘能大郎女」または「伊那毘能大郎女」と表記され、[[吉備臣]]らの祖の若建吉備津日子の娘とされる。
櫛角別王(くしつぬわけ の みこ)、[[オオウス|大碓命]](おおうす の みこと)、小碓命(おうす)(ヤマトタケル)、倭根子命(やまとねこ)、神櫛王(かむくし)らの母親とされる。
妹として「伊那毘能若郎女」(いなび の わかいらつめ)がおり、同じく景行天皇の妃となっているという。
 
===『日本書紀』===
「播磨稲日大郎姫」と表記され、景行天皇2年3月3日に皇后となった。大碓皇子(おおうす の みこ)と小碓尊(おうす の みこと)(ヤマトタケル)の母とされる。
 
『古事記』では妹であった「稲日稚郎姫」を稲日大郎姫の名の異説として挙げている。また、二人のほかに稚倭根子皇子(わかやまとねこ)を産んだという説もあるとしている。
 
===『播磨国風土記』===
記紀のイナビノオオイラツメは『[[播磨国]][[風土記]]』の[[加古郡|賀古郡]]・[[印南郡]]に登場する「印南別嬢」(いなみ の わきいらつめ)だと考えられる。父は[[和邇部臣|丸部臣]](わにべのおみ)の祖・比古汝茅(ひこなむち)、母は吉備比売(きびひめ)(吉備比古の妹か)であるという。[[景行天皇]]が[[播磨]]に印南別嬢を妻問いに行く伝承が加古郡と印南郡の条に載っている。[[日岡]]に墓を作ったが、遺骸を運ぶときに川の中に沈んでしまい、櫛箱と比礼(薄い肩掛け)のみを埋葬したという。
 
「ワキイラツメ」の名は、『古事記』で妹とされ、『日本書紀』で別名とされた「ワカイラツメ」に通じるものだと考えられる。
 
==陵墓==
『播磨国風土記』の記述に基づいて、兵庫県加古川市にある[[日岡山古墳群|日岡山古墳]]が、宮内庁により播磨稲日大郎姫命[[日岡陵]](ひおか の みささぎ)として比定されている。
[[画像:日岡陵_拝所.jpg|thumb|200px|日岡陵 兵庫県加古川市]]
 
[[category:日本神話の人物|はりまのいなひのおおいらつめ]]
[[category:日本の皇族|はりまのいなひのおおいらつめ]]