「吉田増蔵」の版間の差分
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[[福岡県]][[京都郡]][[勝山町 (福岡県)|勝山町]](現在の[[みやこ町|みやこ町勝山]])に生まれる。 漢学者・村上仏山(むらかみぶつざん)の開いた私塾・水哉園に学ぶ。
[[森鴎外]]と深い親交を持つ。鴎外の死にあたり未完の『元号考』を託されるほど信頼されていた。
[[大正]]15年([[1926年]])12月に、[[大正天皇]]が崩御すると、漢学のスペシャリストである吉田は、[[宮内大臣]][[一木喜徳郎]]から元号勧進の命を受ける。吉田は[[書経]]の1節の「百姓昭明」「協和萬邦」の二字をとり「'''昭和'''」の元号を考案した。[[枢密院 (日本)|枢密院]]全員審査委員会にて採用される。
この他にも、吉田増蔵は、[[明仁|今上天皇]]の御名「明仁」をはじめ、多くの皇族の名を考案するなど[[皇室]]と深く関わった。
漢詩集『学軒詩集』が、[[平成]]16年([[2004年]])に[[平沼騏一郎|無窮会]]で出されている。
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{{DEFAULTSORT:よした ますそう}}
[[Category:日本の東洋学者]]
[[Category:漢学者]]
[[Category:1866年生]]
[[Category:1941年没]]
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