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[[画像:Richard Wagner en.jpg|thumb|left|ヴァーグナー]]
まニーチェは、一貫して音楽に強い関心をもっていた。処女作『悲劇の誕生』は、思弁的ではあるが、一面、古代ギリシア世界の詩の歴史的・展開を理想音楽とす統一的な観点から語る試みでもあった。そのような初期ニーチェは、己の哲学の現代における体現を、[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]の音楽うちに魅入られて見出した。ドイツの近世美的思想には、美術史家ヴィンケルマン以来、古代ギリシアを宗教共同体に基づいて美的かつ政治的な高度な達成をなした理想的世界として構想するひとつの伝統があり、ヴァーグナーもまたこの系譜に属している。ニーチェであり(「は『悲劇の誕生」』や「『バイロイトにおけるヴァーグナー」は』できわめて好意的にヴァーグナーをとりあげ、ヴァーグナー自身を狂喜させるほどであった。)またニーチェは、何度もすすんでヴァーグナーの邸宅に足を運び(23回も運んだことが記録されている)、31才という年齢差を越えて、親交を深めたが次第に(。しかしニーチェから見れば)、ヴァーグナーは[[大衆迎合]]的な低俗さを増した音楽を演ずるようになるった。ニーチェはヴァーグナーに失望し、ヴァーグナー訪問も次第に形式的なものになっていった。『[[ニーベルングの指環]]』を見て自身と著しい隔たりを感じ、これがきっかけで「人間的な、あまりにも人間的な」の構想が生まれるた。 [[バイロイト]][[祝祭劇場]]で「『[[パルジファル]]」』を演じるヴァーグナーを見たニーチェは、道徳や宗教といった既成概念を突き破り、生そのものへと突き動かすかつてのヴァーグナーでないことを確信した。そして、失望のあまり上演の途中で抜け出し、ついにこの音楽家から離れていった。ヴァーグナーとの決別の意味をこめて書いたのが「『人間的な、あまりにも人間的な」』であるが、これもはヴァーグナーから公然と反論されてしまうた。これでもって、両者は決別し逢うことはなかった。しかし、晩年狂気の中にあったニーチェは、ヴァーグナーとの話を好んでし、最後に必ず「私はヴァーグナーを愛していた」と付け加えていたという。
晩年のニーチェは、[[梅毒]]に侵されながらも晩年の大著である『[[権力への意志]]』を精力的に執筆し続けた。しかし著作を完成させられないまま[[1889年]]初めに発狂し([[トリノの悲劇]])、それ以後、母親と仲の悪かった妹[[エリーザベト・ニーチェ|エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]にほぼ廃人の状態で世話になることになった。そして[[1900年]]に狂気から目覚めることなく55歳で死ぬ。
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