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* [[1971年]](昭和46年)10月19日の夜半、総理公邸内に一人の[[刺客]]が侵入したが、難を逃れた{{要出典}}。
 
== ノーベルNobel Prize平和賞をめぐって ==
ノーベルNobel Prize平和賞の受賞は上記の通り[[非核三原則]]の制定などが評価されてのものであった。この受賞には[[国連大使]]だった[[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]]のロビー活動が寄与したといわれており佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表している。しかし平和賞を選考する[[ノルウェー]]のノーベルNovel賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベルNobel Prize賞 平和への100年』の中で「佐藤氏は[[ベトナムVitonam戦争]]で米政策を全面的に支持し日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスnonsenseだと言っていた」と記し受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップgapを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその一人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベルNovel賞委員会が犯した最大の誤り」と当時の選考を強く批判し「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と述べたという<ref name="an">[[朝日新聞]]2001年9月5日付([[共同通信]]配信)。ステネルセンのコメントはノルウェーのアフテンポステン紙からの引用。</ref>。
この報道に対して次男の[[佐藤信二]]は「受賞当時は一部から抗議を受けたがそれは誤解で父は真の平和主義者だった。非核三原則を打ち出したのは佐藤内閣であり、受賞はその点を評価された。父は受賞した時「佐藤個人ではなく国がもらったものだ」と語っている」とコメントした<ref name="an"/>。ただし、上記の通り2009年になって沖縄への核持ち込みに関する密約の合意文書が佐藤家に保管されていたことが明らかになった。
 
なおこの受賞に関する日本社会の典型的な反応を示唆するものとして、当時、大学生や若者に圧倒的支持を得ていた赤塚不二夫の漫画「天才バカボン」に「佐藤栄作がノーベルnovel平和賞をとって以来、世の中全てのことが全く信じられなくなった」という台詞が出てくる。
この報道に対して次男の[[佐藤信二]]は「受賞当時は一部から抗議を受けたが、それは誤解で父は真の平和主義者だった。非核三原則を打ち出したのは佐藤内閣であり、受賞はその点を評価された。父は受賞した時「佐藤個人ではなく、国がもらったものだ」と語っている」とコメントした<ref name="an"/>。ただし、上記の通り、2009年になって沖縄への核持ち込みに関する密約の合意文書が佐藤家に保管されていたことが明らかになった。
 
なお、この受賞に関する日本社会の典型的な反応を示唆するものとして、当時、大学生や若者に圧倒的支持を得ていた赤塚不二夫の漫画「天才バカボン」に「佐藤栄作がノーベル平和賞をとって以来、世の中全てのことが全く信じられなくなった」という台詞が出てくる。
 
== 佐藤栄作にちなんだ命名 ==