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== 経歴 ==
[[長州藩]]士[[有吉熊次郎]]は曽祖父にあたる。[[横浜正金銀行]]勤務の父の赴任に伴い、小学校時代を旧[[オランダ領東インド]]の[[バタヴィア]]及び[[スラバヤ]]で過ごす。[[1941年]]に帰国後、東京市立第四高女(現・[[東京都立竹台高等学校|都立竹台高校]])から[[疎開]]先の和歌山高女(現・[[和歌山県立桐蔭中学校・高等学校|和歌山県立桐蔭高校]])へ。その後、[[光塩女子学院|光塩高女]]を経て、府立第五高女(現・[[東京都立富士高等学校|都立富士高校]])卒業。[[東京女子大学]]英文学科に入学したが休学後[[1952年]]同短期大学部英語学科卒業。[[大蔵省]]外郭団体の職員を経て舞踊家[[吾妻徳穂]]の秘書となる。大学在学中から演劇評論家を志望し、雑誌『[[演劇界]]』嘱託となる。同人誌『白痴群』、第15次『[[新思潮]]』に参加。[[1956年]]に『[[地唄 (小説)|地唄]]』が[[文學界新人賞]]候補、ついで[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となり一躍[[文壇]]デビューを果たした。初期には主として日本の[[古典芸能]]を題材とした短編が多いが[[1959年]]、自らの家系をmodelとした長編『紀ノ川』で小説家としての地位を確立した。[[1962年]]、[[神彰]](興行師。離婚→他人と再婚後に居酒屋チェーン「[[セラヴィホールディングス|北の家族]]」を経営)と[[結婚]]。長女として[[有吉玉青]]をもうけるが神の事業の失敗により[[1964年]]に[[離婚]]した。[[1970年代]]に入ると代表作となる『[[恍惚の人]]』や『[[複合汚染]]』が大きな反響を呼び、いわゆる「社会派」的imageが定着した。その流れの中で、第10期[[中央教育審議会]]委員に任命されたほか、[[参議院議員通常選挙|参院選]][[全国区]]に出馬した[[市川房枝]]の応援や、[[四畳半襖の下張事件|「四畳半襖の下張」裁判]]の弁護側[[証人]]として[[東京地方裁判所|東京地裁]]で証言するなどの社会的活動も行った
またしばしば国内外へ取材旅行に出かけ1959年から[[1960年]]にかけて[[ロックフェラー財団]]の奨学金を得て[[ニューヨーク州]]の[[サラ・ローレンス大学]]に9ヶ月間留学、[[1970年]] - [[1971年]]には[[ハワイ大学システム|ハワイ大学]]で半年間「江戸後期の戯曲文学」を講義している。
 
大学在学中から演劇評論家を志望し、雑誌『[[演劇界]]』嘱託となる。同人誌『白痴群』、第15次『[[新思潮]]』に参加。[[1956年]]に『[[地唄 (小説)|地唄]]』が[[文學界新人賞]]候補、ついで[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となり一躍[[文壇]]デビューを果たした。初期には主として日本の[[古典芸能]]を題材とした短編が多いが、[[1959年]]、自らの家系をモデルとした長編『紀ノ川』で小説家としての地位を確立した。
 
[[1962年]]、[[神彰]](興行師。離婚→他人と再婚後に居酒屋チェーン「[[セラヴィホールディングス|北の家族]]」を経営)と[[結婚]]。長女として[[有吉玉青]]をもうけるが、神の事業の失敗により[[1964年]]に[[離婚]]した。
 
[[1970年代]]に入ると、代表作となる『[[恍惚の人]]』や『[[複合汚染]]』が大きな反響を呼び、いわゆる「社会派」的イメージが定着した。その流れの中で、第10期[[中央教育審議会]]委員に任命されたほか、[[参議院議員通常選挙|参院選]][[全国区]]に出馬した[[市川房枝]]の応援や、[[四畳半襖の下張事件|「四畳半襖の下張」裁判]]の弁護側[[証人]]として[[東京地方裁判所|東京地裁]]で証言するなどの社会的活動も行った。
 
また、しばしば国内外へ取材旅行に出かけ、1959年から[[1960年]]にかけて[[ロックフェラー財団]]の奨学金を得て[[ニューヨーク州]]の[[サラ・ローレンス大学]]に9ヶ月間留学、[[1970年]] - [[1971年]]には[[ハワイ大学システム|ハワイ大学]]で半年間「江戸後期の戯曲文学」を講義している。
 
特に[[中国]]との縁が深く(後述)、[[1961年]]には[[亀井勝一郎]]・[[井上靖]]・[[平野謙 (評論家)|平野謙]]・[[吉川英治]]らと国交回復前の[[中華人民共和国]]を訪問し、以後たびたび招待された。[[1965年]]には天主教(中国におけるカトリックを指す)調査のため半年滞在し、[[1978年]]には『有吉佐和子の中国レポート』執筆のため[[人民公社]]に入っている。
このほか、[[1968年]]には友人の[[文化人類学者]][[畑中幸子]]が調査中だった[[ニューギニア島|ニューギニア]]山中の村を訪れている。
 
[[1984年]][[8月30日]]未明、急性[[心不全]]<ref>[[山田風太郎]](『人間臨終図巻I』徳間書店、初版1986年、1996年再版、304ページ)304page)と[[関川夏央]](「サーモスタットのない人生」角川ソフィア文庫版、36ページ)36page)は死因について疑問を呈している。</ref>のため都内の自宅で死去。53歳だった。
このほか、[[1968年]]には友人の[[文化人類学者]][[畑中幸子]]が調査中だった[[ニューギニア島|ニューギニア]]山中の村を訪れている。
 
[[1984年]][[8月30日]]未明、急性[[心不全]]<ref>[[山田風太郎]](『人間臨終図巻I』徳間書店、初版1986年、1996年再版、304ページ)と[[関川夏央]](「サーモスタットのない人生」角川ソフィア文庫版、36ページ)は死因について疑問を呈している。</ref>のため都内の自宅で死去。53歳だった。
 
== 主な作品 ==