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'''荒谷 俊治'''(あらたに しゅんじ、[[1930年]][[4月1日]] - )は、日本の[[指揮者]]。[[日本指揮者協会]]会長
 
==経歴==
[[広島県]]に生まれる。[[福岡県立修猷館高等学校|福岡県中学修猷館]]、[[福岡高等学校 (旧制)|旧制福岡高等学校]]を経て、1953年[[九州大学]]法学部卒業、1955年同文学部卒業する。九州大学在学中は[[九大フィルハーモニーオーケストラ]]、[[福岡合唱協会]]に所属し指揮を行い、指揮法を[[石丸寛]]、作曲を[[高田三郎]]に師事する。1959年[[東京放送合唱団]]を指揮してデビューする。1968年[[東京フィルハーモニー交響楽団]]指揮者に就任する。1969年[[文化庁]]派遣在外芸術研修員としてアメリカに留学し[[ジョージ・セル]]のもとで研究して、1970年[[クリーヴランド管弦楽団]]を指揮する。同年秋からは[[東京バレエ団]]ヨーロッパ公演に招かれて[[ボリショイ劇場管弦楽団]]、[[ルクセンブルク放送交響楽団]]などのヨーロッパ各地のオーケストラを指揮する。
 
傍ら1966年から[[日本オペラ協会]]と協力して『山椒太夫』、『春琴抄』などの創作オペラを公演したり、[[日本音楽集団]]と協力して[[三木稔]]、[[廣瀬量平]]の作品など伝統に根ざした日本の新しい音楽を育てることに情熱を注いだ。1974年からは[[名古屋フィルハーモニー交響楽団]]の常任指揮者として同フィルを日本有数の地方オーケストラに育てた。また、東京リーダーターフェル、東京コールフェライン、福岡コールフェライン、福岡OBフィル、[[桐蔭学園]]第九オーケストラ、町田フィルハーモニー交響楽団、町田フィルハーモニー合唱団など、アマチュアの育成にも尽力する。海外演奏は1970年以来、アメリカ合衆国、ソ連、フランス、スイス、ドイツ、東南アジア、エジプト、中国、南米、韓国に及んでいる。その他、ウィーン楽友協会ホール、シドニー・オペラ・ハウス、アムステルダム・コンセルトヘボウ、ボストン・シンフォニー・ホール、プラハ・スメタナホールなどでも指揮を行っている。
その他、ウィーン楽友協会ホール、シドニー・オペラ・ハウス、アムステルダム・コンセルトヘボウ、ボストン・シンフォニー・ホール、プラハ・スメタナホールなどでも指揮を行っている。
 
2003年2月7日[[山田耕筰]]、[[齋藤秀雄]]、[[朝比奈隆]]に次ぐ第4代[[日本指揮者協会]]会長に就任する。
 
==エピソード==
*九州大学法学部在学中、荒谷はもともと弁護士志望であったが、九大フィルの宮崎の演奏会において、招待児童の中に三重苦の生徒たちがおり、当初は楽員も荒谷もこの子たちがどのようにして音楽を感知できるのかと不思議に思っていた。音楽の感動は聴覚と視覚がなくては享受できないと思っていたからである。しかし、この三重苦の子供達は座している床板から伝わる微妙な振動によって音楽を見事に享受していた。音楽はそこから生徒たちの感応へ見事に溶け入って、生徒たちが輝かしい表情となっているのを荒谷は見た。演奏終了後、生徒たちの拍手を荒谷は泣きたい思いで受け取っていた。この時、荒谷の体を強い衝撃が貫き、プロ指揮者の道を志すことを決意したという。
 
*1955年にワルシャワで開催された[[世界青年学生祭典]]に、日本代表の一人として出席したが、そこでのコンサートにおいて歌われた、ポーランド西南部の[[シレジア]]地方の民謡である『シュワ・ジェヴェチカ』を荒谷が採譜し、同じく参加者であった東大音感合唱団のメンバーが、帰国後にそれに歌詞をつけて日本に紹介した。これが現在、邦題『森へ行きましょう』として知られる歌である。