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[[小笠原氏]]は曾祖父[[小笠原貞宗|貞宗]]が[[足利尊氏]]に仕えた功績で信濃守護を世襲したが、隠居した父の後を継いだ次兄長秀が[[国人]]衆の反感を買い、[[大塔合戦]]に敗れて[[応永]]8年([[1401年]])に信濃守護職を取り上げられ、信濃は[[室町幕府]]の直轄領となった。 政康は応永12年([[1405年]])に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られ、[[駿河国|駿河]]守護[[今川範政]]と共に応永23年([[1416年]])に[[関東地方|関東]]で発生した[[上杉禅秀の乱]]鎮定に出陣、関東の抑え役として4代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]から重用され、応永32年([[1425年]])に信濃守護職に任命された。
 
信濃の支配権確立にも取り組み、[[広沢寺 (松本市)|広沢寺]]、[[信濃三沢寺]]、[[筑摩神社 (松本市)|筑摩神社]]を開基、[[永享]]8年([[1436年]])に[[鎌倉公方]][[足利持氏]]と通じた[[村上頼清]]と[[依田氏|芦田氏]]討伐を果たし、6代将軍[[足利義教]]から感状を授かった。また、[[穴山満春|武田信元]]の[[甲斐国|甲斐]]帰還を手助けしているが、これも持氏の支援を受けた[[逸見有直]]への対抗からであった。[[永享の乱]]と[[結城合戦]]にも参戦している。
 
嘉吉2年(1442年)、[[小県郡]]海野で死去。[[享年]]67。長男の宗康が後を継いだ。しかし、[[嘉吉の乱]]で義教が[[赤松満祐]]に[[暗殺]]された後に[[畠山持国]]が台頭、甥で長兄長将の子の[[小笠原持長|持長]]が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏は[[お家騒動]]で混乱、信濃の支配に動揺をきたすことになった。
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*[[長野県]]編『長野県史 通史編 第3巻 中世2』長野県、1987年。
*[[古川貞雄]]・[[福島正樹]]・[[井原今朝男]]・[[青木歳幸]]・[[小平千文]]『県史20 長野県の歴史』[[山川出版社]]、1997年。
 
== 関連項目 ==
*[[信濃三沢寺]]
 
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