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'''分部 信政'''(わけべ のぶまさ、[[承応]]元年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[1653年]][[1月13日]])- [[正徳 (日本)|正徳]]4年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]([[1715年]][[1月23日]]))は、[[近江国|近江]][[大溝藩]]の第4代藩主。分部家5代。
 
[[旗本]]・[[池田長信]]([[備中松山藩]]主・[[池田長幸]]の三男)の三男。母は朝比奈氏。正室は[[伊東祐由|伊東祐次]]の娘。側室に加藤氏。子に[[分部信秋]](長男)、[[分部光忠]](三男)、娘([[河鰭実詮]]室)、娘([[伊東祐崇]]正室)。官位は従五位下、隼人正、[[若狭国|若狭]]守。幼名は甚三郎
 
承応元年(1652年)12月14日生まれ。幼名は甚三郎。[[寛文]]7年([[1667年]])、先代藩主の[[分部嘉高]]が嗣子なくして若死にして分部氏の血統が断絶すると、嘉高の母方の縁戚に当たると言うことから、その養嗣子となってを継いだ。[[延宝]]4年([[1676年]])、水害により藩内が被害を受けて[[参勤交代]]の延期を願い出ている。[[元禄]]8年([[1695年]])には[[本多重益]][[改易]]後の[[丸岡城]]守衛をめた。他にも幕府の罪人を何人も預かったりしている。
 
正徳4年([[1714年]])6月23日、病気を理由に三男の光忠に家督を譲って隠居し、同年12月18日に63歳で死去した。法号太清院殿雪渓浄献大居士。墓所[[滋賀県]][[高島市]]大溝の円光寺。
 
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[[Category:分部氏|のふまさ]]
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